-序幕-
右も左もわからぬ世界に放り出されたマルスの目に、初めて映った人間が彼だった。
目を閉じれば瞼の裏へ浮かぶその情景は、いかに月日が経とうとも、決して色褪せることはない。
それはとある創造主が気まぐれに作り上げた、闘いを楽しむためだけの世界でのことだった。数多の世界から英雄を集め催される、大乱闘を銘打つ大会。マルスがその大会に招待されたのは、開催が晴れて二度目を数えた時のことだ。
彼は木々や草花が整然と並ぶ、広い庭の片隅で佇んでいた。一際大きな木の近くで、たわわな枝葉を見上げる柔らかな横顔が、マルスが初めて見た彼だった。生い茂る緑の中に自然と溶け込む風柄が、不思議と目を引いたのを、マルスは今でも覚えている。
御伽噺の妖精を想起させる鮮やかな緑色のチュニックとキャピュシュが、そよぐ風に裾を遊ばせていた。陽の光を写し取った鮮やかな金髪の下、雲一つない青空の色をした瞳が、優しげな眼差しを大樹に向けていた。切り取ればそのまま一つの絵画になりそうな光景に、思わず見とれてしまったのも無理からぬことであった。
声を掛けるより先に、気配に気付いた彼がマルスに視線を向けた。堅く引き結んだ唇は、真正面から見るとより薄い。目元には苦境を掻い潜って来た厳しさが滲み出ており、後で知った年齢よりも若干年嵩に見えた。鋭く釣り上がった目はどこまでも高潔で威圧感さえ覚えたが、視線がマルスを捉えるなり、その眼光は驚きで柔らかく丸まった。
「誰ですか?」
幼さの名残が目立つ声だった。醸し出す雰囲気の近付き難さからは意外なほど無防備な響きが、耳に心地良い。
「不躾に申し訳ありません。今日、この世界に喚ばれた者です」
驚かせたことを謝罪するマルスをじっと見つめていた彼は、途端に相好を崩して大丈夫だと手を振った。そのままぎこちなく交わされた挨拶の、丁寧だが親しみやすい、どこか砕けた言葉遣いも印象的だった。細かなところまでよく覚えているのは、やはりマルスにとって、この世界で初めて言葉を交わした参戦者が彼だったから、という理由が大きい。
リンクと名乗る彼の世界に、ファミリーネームの概念はないようだ。フルネームを名乗ったマルスに「長い名前ですね」と困惑する彼の誤解を解くのは一苦労だった。その時のマルスは知る由もなかったが、彼と旧知の間柄であるメンバーにも、ファミリーネームを持つ者はいる。しかし彼は全くそれを意識しておらず、基本的に他者への興味が希薄な性質らしいことは、この一件からも見て取れた。
今にして思えば、そんな彼が一通りの挨拶が済んでも会話を切り上げなかったのは、非常に珍しいことだった。木漏れ日が気持ち良いからと招かれるままに、マルスは彼に倣って大樹の根元に腰を下ろした。冬の気配が色濃くなる中で、背中に感じる幹の逞しさが温かい。
二人並んで座り込み、他愛もない話をしている内に、好奇心で輝く彼の双眸はいつからか、マルスが腰に提げた鞘に向けられていた。ステージ外での帯刀は禁止されているため中身こそ入っていないものの、鞘の形状からマルスの武器がスタンダードな刀剣だと推察したのだろう。いかにも弾む気持ちを抑えきれないとでもいうように落ち着かない様子で、彼はマルスに尋ねた。
「マルスさんは、剣士ですか?」
「剣士と言えるほどの手練ではありませんが、扱えるのはこれだけです。リンクさんも剣を?」
リンクと同様に、マルスもまた彼が背負った鞘に気付いていた。今は留め具のベルトごと脇に置かれているそれには、玲瓏たる装飾が施されている。何を聞かずとも、そこに納まるべき剣に人智を越える謂れがあることを感じさせる美しさだ。
左手で鞘にそっと触れ、彼は照れくさそうに小さく笑った。
「メインは剣ですけど、他にも弓とか爆弾とか色々使うので、オレの方こそ純粋に剣士だとは言えないですね」
「弓まで? 驚きました、器用なんですね」
「器用貧乏だって、友だちによく茶化されましたけどね」
近付き難さを感じさせる一方で、いざ顔を合わせて言葉を交わせば、彼は実に表情豊かな少年だった。短い会話の中でころころとよく変化する表情は、どれも素直で喜怒哀楽がはっきりしている。嘘や誤魔化しが苦手そうな性格だと見当付けたが、後日間違いではなかったことを知った。
マルスより拳一つ分ほど背の低い彼と向かい合うと、ほんの僅かに低い位置から見上げられる形となる。座り込んだ際に背を丸める癖があるようで、並んで座るとその差が更に少し開く。上から覗き込むとその目元からは厳しさが薄れ、代わりに幼さが色濃く映った。青空の色をした瞳が柔らかく細められると、驚くほど優しげに見えることに気付いたのもこの時だ。
「これまで、剣を扱う人ってオレ以外にいなかったんです。みんな魔法とか、よくわかんないカラクリとか、超能力とか、とにかくクセ強くって。だから一緒に苦労してくれそうな人が来てくれて、オレすっごく嬉しいです」
満面の笑みを浮かべ、彼は無邪気にはしゃいでいた。悪戯っぽく告げられた言葉の通りなら、どうやらマルスの前途は多難のようだ。この先に何が待ち構えているものか、苦笑を禁じ得ないが笑ってばかりではいられない。拳を握り締めて気合を入れ直し、大袈裟に真面目な顔を貼り付ける。
「リンクさんのような先達がいるのなら安心です。僕も生き延びられるよう、全力を尽くしましょう」
「がんばってください。マルスさんのデビュー戦、楽しみにしてますから」
マルスの意気込みを、彼は終始笑顔のまま後押ししてくれた。
見慣れぬ世界での見知らぬ人々に抱いていた不安が、一気に期待へと塗り替えられる。心底嬉しそうにマルスを歓迎してくれた彼にどうにか応えたいと思ったその瞬間が、マルスにとってこの世界のはじまりだった。
