-終幕-
マルスが目を覚ましたのは、次の日の朝早く、まだ陽が昇りきる前のことだった。
マスターハンドの自室でもある終点にぽつんと置かれたベッドの上、目を開けたマルスはおもむろに左手を動かした。問題ない。きちんと動くし、目の前にかざした手の平には傷跡すら残っていない。つくづく便利な世界だと感嘆する。
「おはよう」
視界にぬっと飛び込んできたマスターハンドが、抑揚のない声で言った。挨拶を返したかったが、生憎寝起きで霞んだ頭ではろくなことを考えられない。ただ迷惑を掛けたとそればかりがぐるぐると巡り、マルスは目を伏せ、掠れた声を絞り出して彼に詫びる。
「処置は完了済みで不具合はなし、私としては何も問題ないよ。それはリンクに言ってやってくれ。昨夜のあの子の錯乱ぶりはさすがの私も辟易したくらいだ」
聞くところによると、出血多量でいよいよ肉体の維持が危ないとしてマスターハンドがマルスの身体をサルベージした後、ステージに残されたリンクはひどく狼狽していたらしい。平時の彼であればマルスが消えたのはマスターハンドによるサルベージ作業の結果だとすぐに知れただろうが、混乱のあまりそれに思い至らず、ステージを抜けた彼はたまたま食堂前の廊下で鉢合わせたネスとピットに、今にも泣き出しそうな顔で縋ったそうだ。
錯乱したリンクが最初に出会ったのが状況把握に長けた二人だったことは不幸中の幸いだった。支離滅裂なリンクの説明をピットが器用に噛み砕き、ネスはヒーリングでリンクを落ち着かせてから「恐らくマルスはマスターハンドのところだろう」と伝えた。だから心配ないと言われても顔を見るまでは安心出来ないとかぶりを振るリンクに、念のためにと彼ら二人がここまで付き添って来たというのが昨晩のちょっとした騒動の顛末だ。
「君の目が覚めるまで傍にいると駄々をこねていたがね。あの子の心身も相当疲弊していたから、ネスが強制的に眠らせてピットと一緒に連れ帰ってくれたよ。あの二人にも礼を言っておくことだ」
「そう、ですね。申し訳ありません」
「謝る必要はないが、もうこういった無茶はしないことだ。私にもそれなりの情があるつもりでね、いくら直せるといっても傷付く様を見ているだけというのは忍びないのだよ。それはきみもあの子も、他の誰であろうと変わらない」
相変わらずの淡々とした言い回しだったが、その言葉に込められた深い愛情を汲み取るのに苦労はしなかった。顔がない彼には当然表情もないが、もしあったとしたら慈愛に満ちた眼差しを向けてくれていることだろう。
「さて、起き上がれるかね。万全のコンディションを整えたつもりだが」
「はい、問題ありません。お手数をお掛けしました」
ベッドから降りると、驚くほど身体が軽かった。さすがマスターハンド自らが調整の手を入れただけのことはある。深々と頭を下げて礼を言うマルスに、彼は巍然としてその大きな身体を揺らした。
最後に簡単なスキャンとチェックでマスターハンドから問題ないと改めてお墨付きをもらい、宿舎に戻るべく出口のゲートを目指す。その途中で名を呼ばれ、マルスは立ち止まった。床以外は何もない群青の空間に、白い手袋がふよふよと浮かぶ異様で見慣れた光景を振り返る。
「あの子を信じてもらえて嬉しかったよ」
珍しくたっぷりの間を置いて、マスターハンドはそう言った。
抑揚のない彼の言葉の中で「あの子」という単語だけが愛しげに響くのは気のせいだろうか。それから、と更にマスターハンドが言葉を重ねる。
「君は私を疎んじているだろうと思っていたからね。あそこまで肩を持ってくれるなどとは考えていなかった」
「それはまた、何故ですか。僕とあなたはそこまでの関係ではないでしょうに」
「まったく顔を合わせずとも、ヒトは好いた相手の親をどうしても鬱陶しく感じるものだと聞いたことがあるのでね」
思いもよらない言葉を聞いて呆気に取られたマルスだったが、すぐに自然と苦笑をもらした。
「人によりますよ。僕はあなたを信頼しています、マスターハンド」
「そうか。情報を訂正しておくとしよう」
大真面目にそう言って身体を揺らすマスターハンドは、人間に例えると納得して頷いているといったところだろうか。さすがあのリンクを作っただけのことはあるというべきか、彼の抜けた愛嬌もなかなかのものだ。見つめるマルスの胸に、穏やかな気持ちが広がる。
「ありがとう。あの子を頼んだよ」
「――はい」
微笑んで一礼し、マルスは今度こそ終点を後にする。宿舎に直結した転送装置から見る外の空には、未だまどろむような朝焼けが広がっていた。
◇◆◇
リンクの部屋を訪ねてみよう。
終点を出るなりそう考えたマルスだったが、まだこの宿舎の半分くらいは眠っている。昨日のこともあるため寝ているとしたら起こしてしまうのも憚られ、結局マルスは自室へ向かうことにした。
その途中で、マリオとルイージに出会った。どうやらこの二人には昨夜の一悶着は知られていないようで「今日は随分早いじゃないか」と並んで笑うその顔はまるで屈託がない。
軽く挨拶を交わしてすれ違おうとした時、マリオはマルスの顔を覗き込み、にっと笑みを深めた。
「スターが降って来たみたいだな。良い顔になった」
ポンと背中を叩く手の力強さに、彼らも自分を案じてくれていたのだと気付き、マルスは面映い気持ちで頷いた。マリオの隣で、ルイージも良かったと嬉しげに目を細めている。
「今日からは本調子のお前が見られるな。僥倖だ、今夜は皆で祝杯を上げるぞ」
「ちょっと兄さん、朝からそんなハイテンションじゃマルスさんが付いていけないから……。昨日のお酒、まだ残ってるの?」
「そんなわけないだろ、今夜も飲むぞ」
「あぁもう、祝杯とか言って、自分が飲みたいだけじゃないか……」
微妙に成り立っていない会話を交わしながら、マリオは再度マルスの肩を叩いて去っていく。ぶつぶつとぼやきながらそれを追ったルイージが、ふと足を止めてマルスの方を振り返った。
「元気になったみたいで、良かった。ごめんよ、兄さんは飲むと言ったら飲むだろうから、もし良かったら今夜付き合ってあげて」
「――はい。ありがとう、ございます」
胸の底から込み上げるものを堪えながら、マルスは深々と頭を下げる。ひらひらと手が振られ、頼りがいのあるリーダーとその優しい弟は、仲良く並んで廊下の角を曲がっていった。
◇◆◇
すっかり陽も昇り小鳥の囀りが聞こえはじめた頃、朝食をとるべく食堂に向かったマルスは早速ネスに捕まった。あっという間に部屋の隅にあるテーブルに押しやられてしまい、大人しく座って待つこと数分。しばらくして戻ったネスは自分のプレートを抱え、ついでにフォックスを連れて来ていた。服の裾を掴まれ、半ば引きずられているフォックスは、両手にそれぞれ同じ内容のプレートを持っている。
「おはよう。怪我はもういいのか」
向かいの席を陣取って、フォックスはにこやかにプレートを一つ、マルスの前へと差し出した。マルスが苦笑しながら首肯する横で、ネスは既に食前の祈りを済ませてパンに齧り付いている。
「マスターに聞いたよ。ネス君、昨日はありがとう。手間を掛けたみたいだね」
「あぁ、リンクのこと? 珍しいもの見れたから、それくらい別に」
頬張ったパンをオレンジジュースで流し込み、ネスは肩を竦めた。仕草だけは大人っぽいが、その表情は悪ガキ以外の何ものでもない。オムレツをつつきながら二人のやり取りを見ていたフォックスが、呆れたように溜め息を吐いた。
「ネス、さすがにそのネタでリンクをからかうなよ」
「わかってるわかってる。ちゃんと冗談になるくらいの時間が経ってからにするよ」
「全然わかってないじゃないか……」
まったく、と肩を落とすフォックスに、ネスはけらけらと甲高い笑い声を上げた。ちっとも悪びれないその態度が逆に清々しい。素知らぬ顔で食事を再開するネスを尻目に、フォックスは湯気の立つカップを傾け、マルスに向き直って言った。
「大変だったみたいだが、良かったな。雨降って地固まる、ってやつか」
「まさか本当にくっつくとは思わなかったけどねー」
手にしたフォークがちょうどプチトマトに突き刺さったところで、マルスはぴたりと動きを止めた。目の前のフォックスは涼しい顔でスープを啜り、隣のネスも言うだけ言って後は構わず食事を続けている。
マスターハンドからリンクが錯乱していた、という話を聞いた時点で、マルスだってある程度は覚悟していた。少なくとも、確実にピットとネスにはバレているだろう、とは思っていた。だがフォックスに知られていたのは想定外で、その上二人から実際に指摘されると想像以上に気恥ずかしい。
「あの、この話はどこまで広まって……?」
情けなく眉尻を下げるマルスに、クックッと底意地悪くフォックスが肩を揺らした。彼がこの様子では、隣のネスはさぞかし良い表情でこの状況を楽しんでいることだろう。横は見ないと堅く誓い、マルスは半ば自棄でプチトマトを口に運ぶ。
「俺は昨晩ネスから聞いたけど、そもそもリンクがお前を憎からず思ってるのは知ってたからな。あぁ、あいつは俺が知ってることに気付いてないだろうからバラすなよ。俺も他に言いふらしたりはしないから」
「ぼくも言わないよ、フォックスには眠らせたリンクを運んでるところを見られたから状況説明のついでに言ったけど。あとはピットだけかな、全部知ってそうなのは」
ポテトを咀嚼しながら、ネスは顔をしかめた。思えば昨夜、彼はリンクを挟んで苦手とするピットと行動を共にしていたのだから、何か思うところがあるのかもしれない。
「ピットはさ――やっぱり、よくわかんないや。全部見透かされてるみたいでイヤ。キライじゃないけど、仲良くなれる気がしないなぁ」
「あいつ良いやつだと思うけどな。人懐っこくて明るいし、誰かと違って素直だし」
「素直じゃなくってすみませんねー。フォックスは誰とでも仲良く出来る特異体質だから参考にならないよ。あ、ごめん。女難の相はちゃんとあるんだっけ」
「悪かったな、どうせ女性の扱いが苦手だよ! お前ほんっと口減らないなぁ」
降参だと言わんばかりに両手を挙げるフォックスに、ネスが得意げに笑う。気が付けばじゃれ合っているこの二人と一緒だと、沈みがちな話題もたちまち明るい冗談に変わるのだから不思議なものだ。
「ほらマルス、ちゃんと食えよ。今日も試合あるんだから」
「はい」
他の二人に比べて明らかに減りが遅いマルスのプレートを指差して、フォックスがいつもの調子で世話を焼きはじめる。フォークを動かしながら、マルスは幸せを噛み締めた。窓から差す陽光も温かく、今日は一日良い天気が続きそうだ。
「ねぇフォックス、お約束のアレは言わなくていいの?」
「お前、言わせて面白がりたいだけだろ……」
しかめっ面をしながらも、フォックスはネスの期待に応えるべくコホンと一つ咳払いをする。これだからネスはフォックスに懐くんだろうなぁ、などとぼんやり考えて、マルスは何となしに姿勢を正す。
きりっと真面目な顔を貼り付けて、フォックスはマルスに指を突きつけた。
「リンクを泣かせたら、承知しないからな!」
言ってから本人は相当恥ずかしかったようで、伸ばした腕もそのままに、机の上へ突っ伏してしまった。ネスは大喜びで囃し立てているので、彼としては大満足のようだ。肝心のマルスはといえば、目をぱちくりさせた後にようやくその意味を飲み込んで笑いながら頷いたが、それだけでは突っ伏したフォックスには伝わらない。ここは彼に倣って大真面目な顔を貼り付け、深々と頭を下げてみる。
「わかってます、お母さん」
「ちょっと待て。そこは普通、お父さんだよな? 一般的にも俺の性別的にも、お母さんはないよな?」
真剣な声でズレたことを言うマルスに、フォックスが本気で情けない声を上げる。机をバンバン叩きながら笑い転げているネスのせいで、食堂中の視線が三人のテーブルに集まった。
◇◆◇
ネスの他にもう一人、礼を言わなければいけない相手がいた。言わずもがな、ピットのことだ。
マルスと同じく彼は中庭がお気に入りのようで、暇さえあれば入り浸っていると風の噂に聞く。朝食を終えたその足で中庭に向かうと、中央に備えられたベンチの上で気持ち良さそうに陽の光を浴びているピットの姿があった。
「あ、マルスさん。おはようございます」
「おはよう。ピット、朝食は?」
「今日は朝一で済ませました。マルスさんも食後のひなたぼっこですか?」
ピットが隅に寄ってベンチを譲ろうとしてくれるが、隣り合わせは話しにくい。お構いなくと軽く笑って手を振り、まっすぐに見上げてくる丸々とした瞳を見つめ返す。
「ピット、昨日は色々とありがとう」
「んー。何のことでしょう?」
へらりと笑って、ピットはとぼけた。その真意はわからないが、きっと相手を想ってそうしているのだろうと、今は彼の善性を素直に信じられる。
「マスターハンドから聞いたよ。リンクを落ち着かせてくれたって」
「あぁ、そのことですか。気にしないでください、貴重な体験でしたから」
まるでネスのようなことを言って、ピットはひらひらと手を振った。
そう言えば、リンクと鉢合わせた時にピットとネスは何故一緒にいたのだろうか。ピットはともかく、ネスが好き好んで彼に近付くとは思えない。それについて尋ねると、彼は珍しいことにはっきりと顔をしかめた。基本的ににこにこと笑顔を絶やさないピットの初めて見る表情だったが、妙に既視感がある。何故だろうと考えて思い当たったのは、先程朝食の席で見た、ピットの名前を出した時のネスのしかめっ面だった。
「たまたまボクとネスが同じタイミングで食堂を出たところでリンクさんが突っ込んで来たってだけで、一緒だったのは偶然なんです。ボク、あの子苦手なんですよー。天使スマイルはまったく通じないし、あの黒い目で見られると、心を読まれてるみたいな気がして。近年稀に見るきれいな魂持ってますけど、何故か仲良くなれる気がしません」
実は既にものすごく仲が良いのではないかと勘繰ってしまうくらいに、どこかで聞いた内容だ。傍から見ているマルスはこれならむしろ仲良くなれるのではと思うが、本人たちからすれば磁石の同じ極同士、反発するのが当然なのかも知れない。
「ネス君も話すと楽しい子だけどね。それはいいのだけれどもう一つ。あの時ピットが焚き付けてくれなかったら、僕はリンクを追えなかっただろうから。それも、ありがとう」
襟を正して、マルスは頭を下げた。ピットはそんなマルスをきょとんとした顔で見上げている。心当たりがないのか、先程の話を引きずってでもいるのか、本気でわからないようだ。
しばらくしてようやくピンと来たらしく、彼は膝を打って声を上げた。
「あぁ、試合が終わった後のお喋りのことですね。あれ、半分くらいは本気ですよ? だから要らなくなったら捨てる前にボクにくださいね、ちゃんと大切にしますから」
「要らなくなることはないから、約束はしないよ」
「けちー」
ピットは不満そうに唇を尖らせた。可愛らしい仕草だが、発言はまったく可愛くない。冗談なのか本気なのか、どちらもありそうだと思わせるのが彼の怖いところだ。
不穏な軽口の応酬に緩んだ顔を引き締めて、マルスは改めてピットに向き直った。一番言いたかったことは、まだ伝えられていない。
「それから、一つ謝っておきたくて。――ごめんね。忠告してくれたのに、最後まで気付けなかった」
途端に場の空気が一変する。ピンと張り詰めた雰囲気の中で、ピットのガラス玉のような双眸がじっとマルスを見上げている。人形のようなその顔が、ふと柔らかく綻んだ。最初に会った時と――マルスに忠告をくれた時と同じ天使の顔をして、ピットは穏やかに微笑んでいる。
「――真意を悟らせる気はありませんでした。今も、あなたが気付いたことに正直驚いています」
「そうだったんだね。道理で、僕には難しかったわけだ」
マルスは苦笑した。昨晩意識を失ってから、夢の中で悟ったピットの真意は、天啓のようなものだったのかも知れない。
ずっと、大切なものを失う、という悲劇的な文言だけに気を取られてしまっていた。それだけなら、単なる予言であり忠告にはなり得ない。ピットが気まぐれに伝えようとしたのは、そのまま歩いた先にある未来の一つなどというありふれたものではなく、望まない未来を回避する術だった。彼はあの時、確かに言った。大切なものを失うだろうマルスに、それを奪うのは神ではないと。
この世界の神であるマスターハンドも、どこかの女神の使いであるピットも、その言葉通りマルスから彼を奪おうとなどしなかった。それを為そうとしていたのは自分の胸に湧く疑心と、そこから生まれ出た暗鬼だ。誰が奪ったのでもなく、単にマルスが自ら手を離した結果として、彼を失うという未来があった。これでは確かに、天に向かって嘆くのは筋違いというものだ。
「でも予言を外すなんて天使にあるまじき失態です。今からバッドエンドでも、ボクは全然構いませんよ?」
天使然とした表情はどこへやら、天真爛漫に邪悪なことを言いながら、ピットはにこにこと笑う。フォックスは素直だと評したが、マルスが見る彼の天邪鬼は相当なものだ。口では辛辣に毒づきながらも思い返せばいつだって、彼はマルスの背中をそっと押してくれていた。押されたマルスが気付かないくらいのささやかさで、彼は確かに見守ってくれていた。
不思議なのはそのことだ。マルスにはピットの庇護を受けるに値する理由がない。ついでに尋ねると、ピットはそれこそ不可解だとでも言わんばかりに肩を竦めた。
「ヒトって変なこと気にしますよねぇ。トクベツなものが優先して救われたり率先して生贄にされたり、何かと理由を付けたがる地上の感覚はボクらには理解し難いです。まぁ、あなたに関しては確かに理由があって干渉したんですけど」
「理由?」
「トクベツに話しますから、座ってください。たまには童心に返って、絵本を読み聞かせてもらうのも悪くないと思いますよ」
自分の隣にあるベンチの空白を手で叩き、ピットは笑顔でマルスを誘った。不思議と逆らう気が起きず、言われるがまま腰を下ろす。ふと見上げた空は青く、どこまでも高い。
調子に乗って続けた膝枕の提案を丁重に断られ、ピットは不機嫌そうだった。が、彼の感情はその表情ほど大きく動かないと知っているマルスは、特に何も言わずに空を見上げて待っていた。やがて頬を膨らませるのも疲れたのか飽きたのか、彼はいつもの飄々とした顔で、詠うように語り出す。
「いつだったかの、ある日のことです。ボクはふと、大声を上げて必死に祈るヒトに気付きました。どうせ己の幸福か誰かの不幸を願ってでもいるのでしょう。そう思って耳を塞ごうとして気付きました。そのヒトが祈っているのは、友人たちのこれからのことでした」
顔に降り注ぐ陽光に細めた目をそのまま閉じる。ぼんやりとした闇の中で聞くピットの声は不思議に揺れて、まるでさざなみの音だ。
「興味が湧いたので、ボクはそのヒトを空から見ていました。ずっと手紙を書いています。くずかごがいっぱいになるくらい、ペンだこが潰れるくらい、何度も書き直しています。丸められた手紙の中には、長いものも短いものもありました。そのヒトはもうすぐお別れする二人の友人が、傷付かず幸福であって欲しいと願っているようでした」
膝枕を断って良かったと、マルスは心底思った。横になってしまったら、こんな大切な話を前に、眠ってしまっていたかも知れない。
「多くのことを想いながら、そのヒトが最終的に書き上げた手紙は当たり障りのない、儀礼的なものでした。傍にいられない自分が出来ることは少ないと認められる強いヒトでした。それでも何かを為したいともがける優しいヒトでもありました。友人たちを信じて余計なことは言うまいと手紙を投函した後も、そのヒトはずっと祈っていました。そして新しい世界がはじまる前の日、遂にそのヒトはボクに気付いてくれました」
ふと視線を感じて目を開けると、ピットの丸い目がこちらを見ていた。
「――助けなくていい、救わなくていい、ただ見守ってやって欲しい。そのヒトにそう頼まれたので、ボクはあなたに干渉したんですよ」
マルスの胸の隅で凍ったままだった数々の疑問が、その一言で春の雪のように解けていった。脳裏に蘇る赤い影。マルスとリンクを物静かに見守っていてくれた、大切な友人。目の前のピットに重なって、彼の赤毛が風に揺れているのが見えた気がした。
マルスはもう一度空を見上げた。目を瞑る。そうでもしないと、泣いてしまいそうだった。
「あの人間には類い稀なる先見の識がありました。不思議なものです、一見ヒトであるのに人智を超えた匂いがするんですから。実に興味深いです。もっと話してみたかった、あのヒトと闘ってみたかった。――そんなわけでボクは結果として彼の望む通りあなたに干渉しましたが、その願いを叶えたわけではありません。たまたま、ボクが求める結果と彼が望む結果が一致しただけのことです。こちらとしてもマルスさん、あなたには元気でいてもらわないと困るんですよ」
「えっと……?」
「難しい話じゃありません、ボクはこの大会を成功させたいだけです。見ているだけじゃなくて参加する方に回ったのもそのためで、この大会を盛り上げてその次に繋げるのがボクの目的です。この大会が良いものであればあるほど、たとえ終わりを迎えても、白熱した観客が次を望んでくれるでしょう。そうして世界が続いていけば、いつかあのヒトが戻って来た時に、ここで会えるじゃないですか」
ねっ、と手を打ち合わせて、ピットは小首を傾げて笑った。それが天使の感覚なのか随分と簡単に言ってくれるが、ここまで壮大な人待ちはなかなかないだろう。あまりのことに先程こみ上げた感動の嗚咽も、どこかへ露と消えてしまう。
あの友人もとんでもないものに目を付けられてしまったものだと、マルスは内心呆気に取られていた。今はどこにいるのか知る由もないが、彼もまさか通りすがりの天使が自分のために、世界を用意して待っているなどとは思うまい。
「と、いうわけでー。今日も元気に試合、がんばりましょうね!」
もうこれ以上、ピットは話を続ける気はないようだった。何かあると手を叩くのは癖なのか、その手のひらから弾けた音が、空気を一瞬で入れ換える。
「朝の宣誓でマリオさんが『今日の見所は完全復活のマルスだ』って思いっきり煽ってましたから!一敗でもしたら一斗缶くらいは投げられそうですね、楽しみです!」
「マ、マリオさん……そんなにプレッシャー掛けなくても……」
朝すれ違った時のテンションのまま、ノリノリで宣誓をかましているマリオの姿を想像して、マルスはがっくりと項垂れた。マリオのパフォーマンスは時に物騒なほどで、その挑発的な煽りで観客が盛り上がりのあまり場外乱闘を始めるのは、さほど珍しいことでもない。今日もさぞかし観客の期待値を上げてくれたことだろう。
頭を抱えるマルスをピットがにやにやと眺める。
そこに音もなくゆっくりと歩いてきた一人の男が、二人の前で足を止めた。
「あぁ。ここにいたのか」
低く落ち着いた声が鼓膜を打ち、顔を上げたマルスの前に、立っていたのはアイクだった。マルスの顔を確認するようにじっと見つめた後、彼は振り向いて後方に何やら合図の手を挙げる。アイクと正反対の忙しない足音と共に走って来たリンクが、マルスを見て今にも泣き出さんばかりに顔を歪めた。
「マルス!お前、手は!?」
呼吸を整える時間も惜しいようで、リンクは肩で息をしたまま大声でマルスに詰め寄った。散々聞かされてはいたが、やはり相当心配を掛けてしまったようだと、今更ながら申し訳なく思う。左手をかざして見せると少しは安心してくれたのか、リンクの表情に安堵の色がじわじわと滲んだ。
「ごめんね、心配を掛けたね」
「いや。お前が無事で、良かった」
「――それにしても」
マルスは目の前に立つアイクとリンクを交互に見やり、小さく溜め息を吐いた。先程からアイクは淡々とリンクの背を軽く叩き続けており、リンクの呼吸もそのおかげで大分落ち着いて来ている。いつかも抱いた感情だが、マルスとしてはあまり面白くない光景だった。
「本当に、アイクと仲良しだね、リンク」
「ん?あぁ、まぁな。部屋も隣だし、大会始まってからほぼ毎日一緒にトレーニングしてるしな。こいつさ、仏頂面だけど面倒見良くてイイやつなんだよ。今日も俺を起こしに来てくれたし、今までずっとお前捜すの手伝ってくれてたし」
リンクに他意はない。それはわかっている。彼は自分が感じた他人の良いところを、なんのてらいもなく賞賛出来る人間だ。これは紛れもなく彼の長所だ。
表情だけは辛うじて平静を保ったまま、マルスは目を逸らした。その先で、ピットが気の毒そうな目でこちらを見ている。
「ボク、噂に聞くヤキモチ泥沼サンカク関係が見られるのかなって今すっごくワクワクしてたんですけど、拍子抜けです」
どうやらこの天使はマルスに同情しているのではなく、期待はずれの状況に落胆しているだけのようだった。この面子に意を汲んでもらおうなどと考える方がおかしいのかも知れないが、この世に神はいないのかと、神の眷属を前に嘆きたくもなる。
「マルス、どうかしたのか?傷が痛むとか」
「強いて言うなら若干心が痛いかな……。あんまり嫉妬させないでくれると、嬉しいんだけどね」
リンクを安心させるべく、冗談交じりに笑って言う。彼はきょとんと目を丸めたあどけない表情で、そんなマルスを見返した。
「嫉妬?されることはあるかも知れないけど、お前が嫉妬って、しそうにないよなぁ」
とんだ誤解だが、恐ろしいことにリンクは冗談を言っているわけではなさそうだった。彼が自分を一体どう見ているのか、その認識が途端に不安になる。
彼の性格を考えると、変に神聖視されている可能性が高かった。冷血人間扱いも心外だが、聖人君子扱いは更に不本意だ。こちらがそれなりに人間らしい欲望を見せた途端、怯えて逃げられては話にならない。
不安そうに顔を覗き込んでくるリンクに、マルスは笑ってなんでもないよと首を振った。リンクが不器用な性格で、変なところで鈍感なのは承知の上だ。そこも含めて好きなのだから、これはもう仕方がない。
「うわっ!何するんですかぁ!」
両想いだとわかったからと言って、急いては事を仕損じる――これからの教訓を噛み締めるマルスの隣で、ピットが素っ頓狂な声を上げた。
「そろそろ開始時間だ。行くぞ」
いつの間に移動していたのか、アイクがピットをその豪腕で、子猫よろしくつまみ上げている。暴れるピットなどまるで意に介していない。何故か息苦しさを感じて、マルスは自分の首に手をやった。そういえば、あれはマルスも体験済みだ。
「本当だ。今日の先鋒、お前らになったんだな」
広げた日程表に視線を落として、リンクが言った。壁のデジタル時計は、まもなく試合開始時間であることを告げている。
今日のプログラムについては予め決まっていたのだが、今朝になって変更が入ったとマスターハンドから通達があり、食堂で改めて日程表が配られた。それによると、本日最初の試合の出場メンバーにはピットとアイクが含まれている。ピットからすれば昨日の最終試合に引き続き、今度はアイクと組んでのチーム戦だ。
「相手、サムスさんと誰でしたっけ。昨日の友は今日の敵ですか、世知辛いですねー」
アイクの手の先でぷらぷらと揺れながら、ピットがのんびりとぼやいた。どうやらその体勢が気に入ったのか、暴れるのは止めたようだ。積極的に身体を揺らして楽しんでいるピットだが、アイクとしては単に煩わしいだけのようで、米俵の如く肩に抱え直してしまう。一瞬不本意そうな顔を見せたものの、これはこれで気に入ったようだ。抱えられたピットの足が、ばたばたと楽しげに空を泳ぐ。
「――邪魔したな」
リンクを、そしてマルスをそれぞれ一瞥し、アイクは短く言った。そのままマルスの反応を確かめもせずに、ピットを抱えてステージの方へと歩いていく。
なるほど。確かにリンクの言う通り〝いいやつ〟だ。大人気なく悋気したことを謝るべきかと考えたが、恐らく気に留めてもいないだろう。
悠然と立ち去る後姿を見送っていると、その肩に担ぎ上げられたピットが大きな声で叫んだ。
「リンクさん、マルスさん!今日のお二人の試合、楽しみにしてますから!」
身を乗り出しすぎて肩から落ちかけながらも、ピットは上機嫌に大きく手を振ってくる。隣で律儀に手を振り返しているリンクを見ると、釣られたように嬉しげな笑みを浮かべていた。
◇◆◇
アイクとピットの姿が見えなくなると、中庭にしんとした空気が立ち込めた。温かな陽光が降り注ぎ、小鳥の囀りが響く合間を、穏やかな沈黙が流れていく。
立ちっ放しのリンクにベンチを勧めてみるが、軽く断られてしまった。恐らくマルスも感じたように隣り合わせではむしろ話しにくいだとか、若しくは見下ろす視点が新鮮だとか、そういった他愛ない理由で断っただけで、リンクに他意はないだろう。それでも並んで座るのが嫌なのかと気持ちが拗ねてしまい、ついうっかり滑りかけた口を慌てて噤む。
正面に立ちたがるなんて、また噛む気かい――これはさすがに洒落にならない。照れ隠しどころか、本気の怒りを誘発しそうだ。
気分転換に、マルスは懐にしまっていた日程表を広げてみた。変更が入ったのは主に対戦相手の組み合わせだ。紙面に走る青いインクのラインは、今朝これを配られた時に、自分が出場する試合をチェックしたものだ。その中で一際目立っている、丸で囲まれた内容に、マルスの顔は自然と綻ぶ。午前の部の最後の試合。相手はリンクで、一対一。しばらく見なかった対戦カードが、前半のもっとも盛り上がる時間に充てられている。
「お前と闘うの、久しぶりだよな」
広げられた日程表を覗き込んでリンクが言った。その声がどこか躊躇いがちなのは、今日までマルスとの試合を避けていた後ろめたさから来ているようだ。
もう済んだことだ、気にしなくても良いのに。恐らく「ごめん」と口を開きかけたリンクより先に、マルスは「お互いさまだよね」と笑った。たったそれだけでも、言いたいことは十分に伝わったようで、苦笑するリンクの表情から影が消える。
「――それにしても、やっぱり人少ないから一人の負担が大きいな。今日のお前、何試合あるんだよ、これ」
リンクの言う通り、紙面のそこかしこに引かれたラインの数は数えるのも面倒だ。昨日もスケジュールがきついと感じたが、今日はそれの比ではなかった。元々の予定より増えているのだ、すっかり跡もないとはいえ一応怪我人であったマルスに対し、マスターハンドは本当に容赦がない。
「加えて一敗でもしようものなら、一斗缶が降って来るらしいからね」
「一斗缶?なんだよ、それ」
視線と意識を若干遠くにやりながら、マルスは心の中でマリオとピットに恨み言を投げつける。あのワンマンリーダーとお気楽自由奔放天使がそれで堪えるはずもなく、空想の中だというのにへらへらとかわされてしまった。まったく、一筋縄ではいかないことばかりだ。
「そういうリンクはどうなんだい、今日のスケジュール」
「初戦が午前の最終だからな。お前と同じで、午後からみっちりだよ。今日はたぶん、夕飯が美味いだろうな」
「あぁ、本当だね。終わる時間は大体一緒くらいかな」
日程表のあちらこちらに散らばったリンクの名前を辿る。午後からのスケジュールの濃密さは、その言葉通りマルスと同等だ。
「えっと、これだと僕の方が少し早く終わるかな。ねぇリンク、今日試合が終わったらここで待ってるから、夕飯一緒に食べようか」
「いいけど、食堂か部屋で待ってた方が良くないか?オレ終わるの夕方だし、中庭はまだその時間冷えるだろ」
「うん、その時間だから敢えてここにいようと思って」
まったく何を言いたいのかわからない、とでも言いたげに顔をしかめるリンクに、つい、うっかりと、マルスは口を滑らせる。
「いや、またあの時みたいに迫ってくれたら、今日はやり返してやろうと思ってさ」
「すみませんそれについては反省してますので触れないでください」
てっきり烈火の如く怒るだろうと想像していたのだが、意外にもリンクはしおらしく俯くと、小さな早口で捲くし立てた。垂れ下がる横髪から覗く耳の先は赤く、ついつい重ねて意地悪をしてやりたくなる。しかしやり過ぎて嫌われてしまっては元も子もない。
こみ上げる笑いを必死で堪えながら、マルスは立ち上がってリンクの肩を軽く叩いた。
「少し早いけど、僕らも行こうか。肩慣らし、付き合ってくれると嬉しいな」
「あぁもう……。よし、いっそ記憶が飛ぶまで殴ってやる」
「その元気は本番まで取っておきなよ。今日はお互い、午後から長いんだしさ」
余裕綽々として先を行くマルスが、リンクを振り返って軽やかに言った。うるさい、と子供じみた癇癪を起こしながらも大人しくついて来るのだから、ついからかいたくもなるというものだ。
良い天気だった。吹き抜けの空を見上げて、マルスはそっと息を吐く。頭上に広がる青はどこまでも高く、果てがない。浮かぶ雲の白も鮮やかで、近くの木から飛び立った鳥のシルエットも美しい。
深呼吸をするマルスの横で、リンクも同じように空を見上げた。どこまでも澄み切った双眸が、同じ色をした天上を映す。
どうして気付かなかったのだろうと、ふと不思議に思った。その瞳の色だけは、何も変わらない。今目の前にある、乱闘日和の空の色だ。
マスターハンドが彼の瞳に選んだ理由がよくわかる。この色の空の下での闘いは、きっとかけがえのないものになるだろう。
その青に見とれるマルスの背を、今度はリンクが軽く押した。一足先に駆け出した彼は、マルスを振り返りながらも足は止めない。
「今日は絶対、負けないからな!」
「上等。返り討ちにしてあげるよ」
晴れやかに笑うリンクの背を追って、ゆっくりと歩き出す。
どこまでも高い青空の下で、むせ返るような草木の匂いに、どこからか漂う花の香に、体中が満たされていく。頬を撫でる冷たい風も、どこからか聞こえる小鳥の囀りも、全てが心地良く感じられる。
前方で弾むように揺れる帽子の先端を目印に、マルスは地を蹴って駆け出した。
この世界があの空の果てまで続くことを、彼の天使と同じ強さで祈りながら。
(完)
