-幕間-

 次の日、世界はマスターハンドの手によって、恙なく終演を迎えた。
 別れは誰にも、告げも告げられもしなかった。ともすれば冷たさを感じるほどに、皆淡々としたものだった。だが上辺通りに冷えているわけではないことは、この大会で、この世界で、乱闘を通じて同じ熱を共有した仲間だからこそ知っている。次の開催での再会を、皆疑ってなどいないのだ。必ずまた会えるだろう。そのときは、昨日の続きのように遊べるだろう。子供のような無邪気さで、誰もがそう信じている。マルスだって、そうだった。

 目を開けると、懐かしい印璽で封印された招待状が、先程と変わらず手の中にあった。随分永いこと思い出の欠片を拾い集めていた気がするが、時計の針は思ったほど進んでいない。とはいえ思い出したかったこと、忘れたくないことはそれこそ山とあり、事細かに全部を拾っていては時間がどれだけあっても足りないだろう。懐かしい思い出を手繰るのはそこまでにして、マルスは手紙の封を切った。

 コックルフィニッシュが施された、柔らかな手触りの便箋を開く。マスターハンドが拘って選んでいるだけのことはあり、封蝋に印されたものと同じ、大会のシンボルマークの透かしが美しい。アリティアの外交儀礼に則って丁寧に綴られているのは、第三回大乱闘大会についての通牒だ。

 あの仲間たちにまた会えるのだ。そう思うと胸にこみ上げる想いを留めることなど出来なかった。便箋を汚さないよう気をつけながらそっと折りたたみ、封筒に戻す。そこでマルスは気がついた。封筒の中にもう一通、一回り小さな封筒が入っている。

 楮紙の封筒には宛名がなかった。裏を返せば炎の色をした封蝋に、どこかで見たような印璽が押されている。どこで見たかと記憶を辿り、すぐに思い当たった。多少簡略化されているようだが、ロイの生家であるフェレ家の紋章だ。封を切ると、封筒と揃いの便箋が一枚入っており、やや大きめで右上がりの文字が、マルスの名を記している。

 どうやら自分に宛てられたもので間違いないようだ。そう長くはない手紙にさっと目を通したマルスの顔色が、徐々に失せていく。そこにはしばらく会えないことを詫びる内容が、貴族らしく格式ばった文体で認められていた。
 マスターハンドが閉会を告げるより先に、ロイは次回の出場を辞退していたという。簡潔に事実だけが綴られた紙面からはいかなる理由も読み取ることは出来なかったが、真面目で正義感の強いロイのこと、決して生半な気持ちで決めたわけではないだろう。

 だとしても、それは寂しさを払拭する理由にはならなかった。マルスが辛うじて声を上げずに済んだのは、手紙の中にあった「時が来ればまた会える」という一文のおかげだ。今は無理でも、その次、またその次と世界が続く限り、再会の日はいつか来るだろう。それに最後の夜、ロイはマルスに言っていた。また会えるといいね、と。たとえそれが本当に言いたかった言葉を飲み込むために、咄嗟に口をついて出たものだったとしても、信じてしまえば随分と救われた気持ちになった。

 それでも拭いきれない喪失感に苛まれながら、マルスが手紙をしまおうとしたときのことだ。
 指先にふと違和感を覚えた。紙の繊維とは違う突っ掛かりを感じたのだ。何となしに目をやれば、件の指先は紙面の端に触れている。一見して不自然なところは何もない。ふと思い立ち、マルスは紙面を傾けた。光に透かされ一層目立つ繊維の中に、不自然な凹凸を見つけた。

 文書を書く上で、下に敷かれた紙にまで筆跡が残ってしまうのはよくあることだ。インクの裏移りほどはっきりと見えるわけではないが、マルスがそうしたように角度を変えると浮き彫りになってしまう。どうやらこの紙の上でロイはなにかを書いており、筆圧が高かったか、ペン先が沈みやすい紙質だったかで、跡がついてしまったのだろう。

 そうだとすると、妙な点もある。外交文書などは余計な文言が入っていると、有事の際に揚げ足を取られて不利な立場に立たされかねない。そのため多くの貴族や王族が、紙面に何かを記さなければならないときは、机の上に一枚だけ紙を置き、決して数枚が重なることがないようにして、筆跡が移るのを防止している。貴族であるロイもこうした習慣付けはされているはずで、それを考えると些か不自然だ。

 だが実際のところ、これは外交文書でもなんでもない、友人に宛てた信書だ。そこまで気張って書くものでもないし、書いたのが大会の終わり間際なら時間も環境も十分ではなかったのだろう。気に留めるほどのことでもない。せいぜい友人の珍しい迂闊さに、微笑ましい気分になるくらいのものだ。

 しかしそこに移った文字を読んで、マルスは笑うことが出来なかった。紙の繊維に紛れてしまい、ところどころ消えかかってはいたが、それは確かにこう読めた。

 ――を、信じてやってくれ。

 偶然に移り込んでしまっただけのもので、マルスに宛てられた言葉ではないのかも知れない。それなのに、紙面に綴られたどの言葉よりも胸に突き刺さる。
 偶然なのだろうか。胸の中で、疑惑がゆっくりと首をもたげた。

 あの最後の夜と同じように、彼は別の言葉で真に言いたかったことをごまかしているのではないだろうか。暫しの別れを口実に、丁寧な挨拶の中に混ぜた本音が、これなのではないだろうか。

 ロイがこの手紙でマルスに伝えたかったのは、別れの挨拶でも再会の約束でも健闘の祈りでもない気がした。今にも見えなくなってしまいそうな、インクの滲まないこの一文こそが彼の本音だと思った。あの夜と同じように、彼は最後まで伝えるべきか否か迷ったのではないだろうか。だからこのような形で書き記したのではないだろうか。マルスが気付くことを、気付かないことを、きっと同じ強さで祈りながら。

 全ては憶測に過ぎない。ほんの少し角度が変われば消えてしまう、ロイからの嘆願。それが何を意味するのかはわからないが、頭の片隅に留めておこうと思う。光に浮かんだり消えたりしている一文をしっかりと目に焼き付けて、マルスはそっと折りたたんだ手紙を封筒へとしまいこんだ。

 信じてやってくれ。

 マルスの脳裏で、ロイの声がそう言った。どういう意味だと問いたくても、ロイは次の大会にいない。急に心細くなって、マルスは固く目を閉じた。もうすぐ再会する懐かしい顔振れの中で、隣り合ったリンクとロイが無邪気に笑い合う光景が見えた気がした。

 正体不明の不安を振り払うべく、大丈夫だと必死に自分へ言い聞かせる。次の大会が始まったら、真っ先にリンクを探そうと心に決める。声を掛けて、挨拶をして、それが終わったら実は、とロイが来られないことを伝えよう。彼は驚きにあの青い目を見開いて、それから悲しげに眉尻を下げるに違いない。本当ですかと詰め寄ってくるかもしれない。信じられないと首を横に振りながら、睫毛を伏せて俯くこともあるだろうか。そのときはマルスも声を上げて、勝手に不参加を決めたロイに恨み言の一つもくれてやろうと思った。そうしてリンクと話していれば、この不安は消えるだろう。ロイがこんなことを言っていたのだと笑って話したなら、彼の杞憂を二人で笑い飛ばせることだろう。

 空想の中で、マルスは見慣れた緑衣を纏う後ろ姿に声を掛けた。キャピュシュの先端が、風と遊ぶようにふわりと揺れて、振り返る。

 知らない空の色をした瞳が、マルスを見てひどく優しく、細められた。

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