終戦後:1186年 竪琴の節
一一八六年孤月の節三十一の日、天から降り注いだ光の杭により城塞都市アリアンロッドの政庁、ならびに城壁の主要部分が全壊。四百年もの長きに渡り己と王国を守り続けた『白銀の乙女』は、その内に住まう数多くの無辜の民と共に役割を、生を失った。
それから丸一節以上が経った竪琴の節11の日。前節に王都フェルディアで人ならざる支配者『白きもの』を討ち、フォドラ全土の統一を果たしたアドラステア皇帝エーデルガルトとその忠臣ヒューベルトに伴い、ベレトはアリアンロッド跡地を訪れていた。北の地の厳しい冬の気配など一切感じさせない、春らしくあたたかで美しい青空が頭上に広がる日のことだ。
天に敷かれた澄み切った青や、近くの森から響く小鳥の囀りが何かの間違いに思えるほど、目の前に広がる光景は凄惨だった。光の杭の直撃後、上空に巻き上げられたという巨大な噴煙はもうすっかり晴れていたが、だからこそこの地を襲った悲劇とそれがもたらした惨憺たる有様が、残酷なまでに克明に、見る者の目を焼いていく。乙女と呼ばれた頃の面影など欠片も残ってはいなかった。爆心地に近づけば近づくほど、人の死体が減っていく。犠牲者がいなかったわけではなく、遺体がその場に留まれないほどの爆風が巻き起こったのだ。積み上げられた瓦礫や中途半端に残った壁、抉られた地面などのそこかしこに黒い影が染みついている。これが人だったのだと、いつも以上に感情の窺えない低い声でヒューベルトが言った。正しくは人そのものではなく、光の杭が爆発する瞬間この場に人がいた証であるとのことだが、細かい理屈など大した問題ではなかった。たった一瞬で多くの命が失われたことに変わりはないのだ。穿たれた爆心地の真ん中で、ベレトとエーデルガルトは暫くの間、言葉もなく立ち尽くした。報告にあった犠牲者の数が絵空事に思えるほど、ここには戦場特有の死臭がなかった。
「……虐殺、という言葉ですら足りないわ。私たちがこれから戦おうとしているのは、この光景を地に生んで尚平然としているような……正真正銘の、外道なのね」
ベレトの横でエーデルガルトが呟いた。その声は静かだが、怒りと恐れで微かに震えている。
先の戦争は終結したが、本当の戦いはこれからだ。フォドラに蔓延る悪意の根、目の前の惨禍を生みだした真犯人である『闇に蠢く者』を残らず殲滅しなければ、改革も平和も叶わない。それどころか光の杭一つで帝都アンヴァルが消し飛び、先の戦争の犠牲の上に更なる犠牲を積むだけの結果に終わることにもなりかねないのだ。
実際にそのような脅迫が、既にエーデルガルトの元に届いている。彼女は前々から『闇に蠢く者』と手を切りたがっているそぶりを隠そうともしていない。戦争が終結し、彼らと不承不承手を結ぶ必要がなくなった皇帝がその魔斧を自分たちに向けやしないかと、彼らは闇の中で警戒しているのだろう。
エーデルガルトとヒューベルトは既に、帝都アンヴァルの内側に潜む『闇に蠢く者』の掃討に着手している。事が事だけに事実を告げて協力を頼める相手も限られており、手勢はかねてより『闇に蠢く者』の真実を把握しており皇帝派としてエーデルガルトを支えてきた軍務卿ベルグリーズ伯と内務卿ヘヴリング伯、それから先日全てを打ち明けたところ二つ返事で全面的な協力を申し出てくれたフェルディナントのみだ。この三人にエーデルガルトとヒューベルトを加えてもたった五人である。彼らがいかに優秀で一騎当千の力を持っていようとも、帝国そのものに根差した病魔を討ち払うにあたっては些か分が悪い。ましてやそこから敵の本拠地を叩く戦闘部隊を出すとなると、これはもう不可能に近かった。エーデルガルトは主戦力としてイエリッツァを準備したが、調査の結果判明した敵の本拠地は帝都に匹敵する規模の地下都市であり、たった一人でどうにか出来るものではなかった。かと言って大軍を動かしては敵を不用意に刺激するだけだ。乱発は不可能だろうが、相手は光の杭という切り札を持っている。
帝都内の敵勢の動きを封じつつ、その間に少数精鋭で迅速に本拠地を制圧するのが理想だが、多大な危険を伴うだろう戦闘要員が圧倒的に足りていない。
「師……お願い。私にはまだ、貴方の力が必要なの」
隣に立つベレトに威儀を正して向き直り、深々と頭を下げようとするエーデルガルトを、彼は首を横に振って制した。たかが傭兵相手に皇帝が軽々に頭を下げるべきじゃない、と静かな目が叱りつける。
エーデルガルトの真の敵がセイロス教団や『白きもの』とは別にいることを、ベレトは先の戦争の最中で知っていた。人間らしい正常な鼓動と引き換えに女神の力は失ったが、それでも人並み以上に戦う力は残っている。こうしてエーデルガルトから協力を要請されることだって勿論想定していたし、彼女の力になれるのなら吝かではない。
それなのにベレトが彼女にすぐ応えられずにいるのは、今の彼には自分自身よりも大切なものがあるからだ。ベレトは黒い手袋に包まれた自身の左手をじっと見つめた。馴染み過ぎてもはや肌と変わりないこの手袋の中には今、胼胝と古傷にまみれた手を彩る指輪が隠されている。フェルディアでの戦いが終わってガルグ=マクに帰還したその日に、リンハルトから贈られたものだ。「僕は貴方を自分のものにしたい。貴方の一番で、ありたい」と、そんな真摯な言葉とともに。
教師としては不適切だが、ベレトにとってリンハルトは学生の頃から特別な存在だった。惹かれた理由なんてわからない。寝坊して講義をすっぽかした上に悪びれもせず睡魔に責任転嫁する、そんな態度さえ愛しかった。手の掛かる子ほど可愛いというが、リンハルトはベレトにとってまさにそういう存在だ。激動する戦況の中でだって、それは変わらなかった。むしろ彼に向ける愛しさは日に日により大きく膨らんで、今やベレトの中に収まりきらないくらいになっている。ベレトが自分自身よりも大切なものとはもちろん、リンハルトのことだ。
「……こちらからも、交換条件を出していいだろうか」
手を組むそぶりで手袋の下の指輪をそっと撫でながら、長い沈黙を破ってベレトはようやく切り出した。辛抱強く待っていたエーデルガルトはぱっと顔を輝かせ、それからはたと唇を引き結ぶと、しかつめらしい表情を貼り付けて頷いてみせる。
「条件? 何かしら」
「リンハルトのことだ」
ベレトの口から唐突に飛び出したこの場にいない人物の名前に、エーデルガルトもヒューベルトもまったく動じなかった。本当に元傭兵なのか疑わしいほどに報酬や見返りを求めないベレトが珍しく交換条件を持ち出すとあれば、それは彼自身のためではなく彼の大切な誰かのためであることは容易く予想できることだ。そしてベレトがリンハルトを特別に想っていることは、エーデルガルトとヒューベルトのみならず戦場を共に駆けた仲間たちの知るところである。だが、ベレトがリンハルトの名の後に続けた要望は、それを聞いた二人を心底から困惑させた。
「リンハルトを、自由にしてやってくれ」
「……自由に、とは具体的に、どういうことかしら」
ベレトの端的過ぎる要望に、困惑を隠しきれないエーデルガルトが詳細を問う。自由も何も、リンハルトは元より好き勝手、自由気ままにしか動かない男だ。戦争中はベレトに付き従って望まぬ戦いの中に身を置いていたが、戦争が一旦の終結を迎えた今、戦後の処理に奔走する仲間を尻目に趣味の昼寝や研究に勤しんでいると聞く。既にこの上なく自由な彼を、これ以上どうやって自由にしろというのだろうか。もしや謎かけめいた無理難題を引っ掛けて協力の要請を拒否しようとしているのでは、との考えを過らせたのはヒューベルトだが、彼はすぐにそれを馬鹿馬鹿しいと打ち切った。ベレトがそんな回りくどいことをするとは到底思えない。
ヒューベルトのその考えは正しく、ベレトは大真面目だった。詳細を尋ねられ、少しだけ考えるようなそぶりを見せた後、彼はまっすぐにエーデルガルトとヒューベルトの両名を見つめて口を開いた。
「リンハルトが望まないことを、一切無理強いしないでほしい。働きたくないと言うなら、働かずに済むようにしてやってくれ。リンハルトの望みを全て叶えろなんて無茶は言わない。あの子はただ与えられるより自分で釣り上げたい性質だ、過剰な施しや膳立てはむしろ厭うだろう」
「……要するに、今後の作戦……特に戦闘行為に関して、リンハルト殿への協力要請を禁止する。そういうことですかな」
言葉を選びきれないままの主に代わり、ヒューベルトが口を挟む。ベレトは「それもある」と頷いて、それからまたそっと手袋越しに指輪を撫でた。
「……敵の本拠地はゴネリル領の近辺にある地下都市だったな。内部の構造については不明瞭な点も多く未知数、加えて敵は光の杭をはじめとする強大な兵器や攻撃手段を擁している。これはある程度敵の情報が知れていた今までの戦いとは訳が違う。……だからイエリッツァのような罪人や、自分のような傭兵を動員するしかないんだろう?」
「ええ、その通りです」
かぶりを振って口を開きかけたエーデルガルトを手で制し、ヒューベルトは事も無げに頷いた。目標とする敵の本拠地は、ベレトの指摘通りこれまでの戦場とは段違いに危険な場所だ。生半な兵を送ったところで、それは死地に向かわせるのと同義である。勿論エーデルガルトもヒューベルトも、ベレトやイエリッツァを使い捨ての駒のように考えているわけではない。ベレトとて、二人が自分をそのように扱うなどとは端から思っていない。先の言葉も糾弾ではなく、ただの確認だ。それを理解していたからこそ、ヒューベルトは主を制して悪辣な返答を引き受けたのだ。
ヒューベルトやフェルディナント、それから軍務卿ベルグリーズ伯。戦闘能力が高い彼らがこの件でアンヴァルから動けないのは、帝国内部に巣食う敵勢を抑えるためではあるが、それだけではない。より危険な本拠地に向かわせて、未来の帝国を支える人材を失う可能性を恐れたからだ。どんなに言葉を飾ろうとも、それは事実だった。泰然としたヒューベルトの横で、エーデルガルトは俯いて唇をきつく噛んでいる。心優しい彼女のことだ、皇帝という立場さえなければ率先してベレトと共に行きたがっただろう。
エル、とベレトは彼女の名を呼んだ。はっとしたように顔を上げ、エーデルガルトは薄く微笑むベレトを見つめる。
「引き受けた仕事は遂行する。無駄に死にに行くつもりはない。その上で頼みたいんだ。自分が戻るまで、自分の代わりに……エルでもヒューベルトでも、アドラステア帝国そのものでも、誰でもいい。リンハルトを幸せにすると誓ってくれ」
「師、貴方の願いはわかった。でも、師の代わりになんて、誰も……」
「エル、頼む」
エーデルガルトの言葉尻を遮って、ベレトは再度強く言った。射貫くような視線も鋭さに、彼女は言葉を失って黙り込む。
死にに行くつもりはない、無事に戻って帰ってくる。それはベレトの本心だった。だが彼はそれがただの希望に過ぎないことを知っている。傭兵として、教師として、指揮官としての目が見つめてきた無常は、果たして数えきれるほどだろうか。言葉にこそしないものの、ベレトは自分が殉死する可能性を考えていて、その上でエーデルガルトに託しているのだ。彼が何より大切に想っている、リンハルトを。
本音を言えば、ベレトだってこんなことを他人に頼みたくなどなかった。ベレトが生死不明になったことで五年も気を揉ませた挙句、ずっと無理を強いて戦場に立たせてしまっていたリンハルトに、ようやく報いることができると思った矢先にこれだ。リンハルトの幸せを、この世界で誰より願っているのは自分だという自負がベレトにはある。彼を幸せにするのは自分だと、当たり前に思っている。それなのに、その権利を他者に託すのはひどく苦しい選択だった。エーデルガルトを困らせていることだってわかっているのだ。それでもベレトはそうするしかなかった。自分のつまらない意地など、リンハルトの幸せに比べれば些末事だった。
「……ええ、わかったわ、師。アドラステア帝国は、貴方の想い人を決して害さない。皇帝エーデルガルト=フォン=フレスベルグの名に懸けて誓いましょう」
ベレトの想いと決意を確かに受け止めたエーデルガルトは、静かに目を閉じて厳かに告げた。今の彼女は視察に適した軽装であり、謁見などで見られる仰々しい鎧は身に着けていない。頭上にあるのは高い天井ではなくそれよりずっと遥かな青空で、周りは無残な瓦礫が積み上がるだけの廃墟だ。それでもその瞬間、彼女は確かに玉座の間に君臨する皇帝の顔をしてみせた。
ありがとう。囁くようにそう言って満足げに頷くベレトに頷きを返し、エーデルガルトは猛々しい皇帝の顔を引っ込めた。ただのエーデルガルトに戻った彼女はベレトを見上げ、柔らかく細めた目で彼を見つめる。彼女のその視線はまるで自身の翼を繕う嘴のように、ベレトの顔を優しく撫でた。
「師はリンハルトにずいぶん甘いのね。知らなかったわ」
「ずっと辛い思いをさせてしまったから、戦争が終わったら望みは全部叶えてやろうと、そう考えていたんだ。……甘いだろうか。足りないくらいだと思うが」
「私は師ほど甘やかすのが得意ではないわ。誓いを反故にするつもりはないけれど、力が及ばないことはあると思うの。……だから、なるべく早く帰ってきてちょうだいね、師」
絶対に帰ってきて、という言い方を彼女は敢えて避けた。「わかった」とベレトが答えて、会話は途切れた。
もう少しアリアンロッドの残骸で調査をするというヒューベルトとエーデルガルトを置いて、ベレトは一足先にアンヴァルに戻ることになった。アンヴァルから敵の本拠地まではそこそこ距離がある上に、ゴネリル領を統治するゴネリル家と帝国は互いに先の戦争で禍根を残している。敵の本拠地を叩くにあたりゴネリル領に話を通すか通さないか、そこから軍議にかけなければならない。方針がどう決まろうと、すぐに出立できる準備をしておく必要もあるだろう。何より、ベレトは少しでも長くリンハルトと一緒にいたかった。こうして離れている間に、二度と会えなくなってしまうのではないか。そんな根拠のない恐怖が、背筋に張り付いて離れないのだ。
別れ際、ベレトとエーデルガルト、それからヒューベルトの三人は調印代わりに改めて互いの認識を擦り合わせた。ベレトが『闇に蠢く者』の本拠地襲撃作戦に全面的に協力すること。ベレトが不在の間もリンハルトが不自由なく過ごせるよう、皇帝の名において彼を守ること。来週末、24の日までに方針を決め、出立予定は節末の31の日。この事は敵を認知する者だけの周知に留めること。
「リンハルトにも伝えないでほしい。……情けない話だが、決意が鈍る。自分の出立後、二人から説明を頼めるか」
「ええ、かまわないわ。……だけど、師は本当に、それでいいの?」
「ああ。リンハルトは無理をしてでも付いて来ようとするかもしれない。……だがもう、血の一滴だってあの子には見せたくないんだ」
再三の確認にも、ベレトの決意は変わらなかった。エーデルガルトは黙って頷くと傍らのヒューベルトとともに、単身アンヴァルへ帰還するベレトの背中を見送った。
ベレトの乗った飛竜が遠くの空に溶けきったのを見届けて、エーデルガルトはそっと溜息を吐いた。緊張から解放された安堵の他に、どこか少女めいた陶酔がその吐息に混ざっている。
「……師でも読み間違うことがあるのね」
おもわず漏れてしまったらしい呟きを、隣に立つヒューベルトが聞き逃すはずもない。「まったくですな」と主に同意を示す彼は、口元に不敵な笑みを浮かべて空を仰いだ。
二人が認めるベレトの強さは、その剣の腕ばかりではない。戦場の全てを空の上から俯瞰しているとしか思えない視野の広さ、敵の行動を完璧に見切った上で次々に重ねられる的確な指示。人の心か、あるいは未来を見通す力でもあるのではないかと疑うくらいに戦場を支配してしまうその采配こそ、ベレトの強みだ。それなのに彼はリンハルトのこととなると、時に驚くほど突拍子もない行動に出ては自分で自分の首を絞めている。こういう時のベレトには、普段の戦場での神懸かった采配など見る影もない。
「人は皆、切羽詰まった時ほど自分の足元を疎かにするものです。あれだけ人間離れした先生も、人の子だったということでしょう。貴方様にとっては喜ばしいことではないですかな、陛下」
「……師の出した交換条件だけれど、変更はいつでも受け付けると伝えた方が良かったかしら」
「リンハルト殿の動きを見てからでも遅くはないでしょう。先生とは別の意味で、リンハルト殿もなかなかの曲者ではありますからな」
「それもそうね。どちらかと言えば、私はリンハルトの方が読めないわ」
学生の時分から散々に振り回されたことを思い出して、エーデルガルトは沈痛な面持ちで額を押さえた。努力では得られない才を幾つも持ち合わせて生まれながら、その才を活かす才だけには徹底して恵まれなかった怠惰な眠り人。それがリンハルトに対するエーデルガルトの評価である。猫のように気まぐれで、血と暴力を厭う彼が先の戦争で英雄と讃えられるほどの功績を挙げるまでに至ったのは、偏にリンハルトを魅了する何かがベレトにあったからだ。エーデルガルトはそれをベレトが持つ炎の紋章ではないかと思っていたのだが、ベレトから紋章が失われた今もリンハルトは変わらずベレトを慕っているので、いよいよ分からなくなってきている。
彼らが士官学校時代からただならぬ関係を持っていたらしいことは黒鷲遊撃軍において周知の事実だったが、逆に言えば知られているのはそれくらいのものだ。故意か無意識かはさておいて、揃って本心を他人に見せたがらないところが似合いの二人である。彼らが互いに向ける想いは、他人に対して喧伝されることがない。故に傍から見た彼らは「よくわからないが好き合っているらしい」くらいの関係だった。
ベレトとリンハルトの仲について詳しくは知らないエーデルガルトだが、今回の件にも関することで一つ知っていることがある。ベレトも言っていた通り、リンハルトは怠惰なその性質に反して、ただ与えられるだけのものを好まない。上を向いて口を開けて餌を待つ時間があるのなら、興味の惹かれるままふらふら出歩くか心行くまで眠るか、そういう人間だ。リンハルトは興味を示したものに対しては徹底して自分の目で確かめて、自分の手で触れようとする。自身の感覚を何より尊び、他人が弾き出した答えなど求めない。そんな彼が『ベレトの代わり』なんてまがい物を認めるはずがないのだ。それを彼と一番縁が深いはずのベレトが気づけないのはなぜなのかと、エーデルガルトは嘆かずにはいられない。
たとえベレトとの約束に則ってエーデルガルトがあらゆる自由を与えたところで、リンハルトにとってはそんなもの屑鉄程度の価値もない。代替品など見向きもされやしないだろう。その自由がこの世の贅のすべてを尽くして作られた豪奢なものだったとしても、リンハルトにとってそれは『ベレトではないもの』でしかないのだから。
「……リンハルトが上手く師を説得してくれるといいのだけれど」
「我々がアンヴァルに戻る前には済ませていただきたいものですな」
軽口に見せかけた切実な希望を投げ合って、エーデルガルトとヒューベルトはこれからの未来に思いを馳せる。物憂げな溜息と陰鬱な笑い声が混ざりあい、廃墟の中心に響き渡った。
敵勢の手により壊滅させられたアリアンロッドの視察を終え、アンヴァルに帰還したベレトは真っ先にリンハルトの元に向かった。リンハルトはエーデルガルトが新設した紋章や英雄の遺産の研究施設で何やら実験の最中だったが、ベレトの来訪を知るなり手を止めると、喜んで研究室の中へと招き入れた。
他に人目がないことと部屋の鍵がかかっていることを確認してから、ベレトはリンハルトを抱きしめた。横を歩いていたと思ったら唐突に背後を取られ、あまつさえ抱きすくめられたリンハルトは驚いて振り返ろうとしたが、見えるのは自身の首筋に埋められたベレトの頭頂部くらいのものである。
「先生? どうかしました?」
「……いや。久し振りに会えたから、つい」
「そういえば、陛下とアリアンロッドの視察に行くって言ってましたね」
振り向くのを諦めて、リンハルトは胸元に回されたベレトの手に自身の手を重ねて言った。ここ数日の別離はベレトの心身をすっかり弱らせていたが、リンハルトはまったく堪えていないようだ。長い緑髪からは微かに脂の匂いがした。どうせ湯浴みの時間も惜しんで研究に没頭していたのだろう。こうなると彼にとって時間という概念などあってないようなものだ。ベレトの不在の間の数日など、あっという間に過ぎてしまったに違いない。
何となく悔しい気持ちになって、ベレトは八つ当たりの恨み言を飲み込む代わりに、リンハルトの耳の裏に鼻先を突っ込んだ。リンハルトは本気で嫌だったようで、即座にそこそこの力で振り払われてしまう。
「やめてくださいよ、そんなとこ。言いたいことはわかってますって」
「別に、嫌な臭いはしないが」
「先生が良くても僕は嫌です。ほら、こっち。来てください」
振り返って真正面に向き直り、リンハルトは両手を広げてベレトを招いた。開かれた胸にベレトが素直に身を預けると、広げられた両手がゆっくりと優しく閉じて、ベレトの背中をぽんぽんと撫でる。
「おかえりなさい。寂しかったですよ、僕だって」
「……研究は?」
「おかげさまで捗ってます。先生がいないと、大事な昼寝に身に入らないんですよねえ」
「充実してたようで何よりだ」
他愛無い応酬ですっかり機嫌を良くしたベレトはリンハルトを一度だけ抱きしめ返すと、するりとその腕から抜け出した。先程まで甘え倒していたとは思えない涼しい顔で、いかにも指揮官と部下らしい適切な距離を持ち直す。ベレトのこの切り替えの早さは、リンハルトと二人きりで自室に篭もっている時もまったく変わらない。
「自分はこれから家に戻ろうと思うが、君は?」
「ああ、すみません。少し急ぎの用があるんです」
つれない口調でそう言うと、リンハルトは部屋の真ん中に鎮座する大きな机の上に目をやった。何らかの実験の途中なのだろう、ごった返しの机の上には大小様々な目算硝子容器がずらりと並び、そこかしこに散らばった実験器具の下には中途半端に紙面が埋まった書きつけが敷かれている。何をしているのかベレトにはまったくわからないが、机の荒れ具合からして何かが佳境なのだろうということは読み取れる。事情は理解したベレトだが、リンハルトの返答を聞いて顔が曇るのを誤魔化せなかった。元々表情が薄いといわれるベレトのこと、他人から見たらわずかに眉尻が動いたくらいにしか見えないだろう。しかしリンハルトからしてみれば、大きく揺れたベレトの感情が手に取るようにわかろうというものだ。
「週末までには済ませますから。日曜は先生の家でゆっくりしましょう」
「日曜か。……遠いな」
「すぐですよ。いい子で待っててください」
曇り顔が未だ晴れないベレトを、リンハルトは苦笑しながら宥めた。時間はたっぷりあるだろうとでも言いたげなリンハルトの様子に、ベレトの気持ちはますます落ち込んでいく。ベレトの出立予定日は今節末。あとたった二週ほどで、リンハルトとは離れ離れになってしまうのだ。だがそれをリンハルトに説明するわけにもいかず、ベレトは残されたわずかな時間に焦る心をひた隠しにするしかない。
他に誰もいない、薬品の匂いが立ち込めるばかりの密室で、二人は律儀に衆目に適った距離を保ち続けている。それも互いに触れ合いたい気持ちを押し殺して、だ。もう既に二度も抱擁を交わしておきながら……と二人して思っているのだが、一度この距離に落ち着いてしまうと三度目に踏み出す勇気を揃ってどこかになくしてしまう。二人の仲は睦まじく、普段から諍いなど殆どなかったが、このように不器用にもすれ違ってしまうことは時折あった。いや、むしろすれ違ってなどいないのかもしれないが。
「じゃあ先生、また週末に会いましょう」
「ああ。……自分の目がないからと、危ないことはしないように」
「僕をいったい幾つの子供だと思ってるんですか?」
まったく屈託のない応酬を交わした後に、そのまま二人は別れた。室内にリンハルトを一人残して、研究機関を出たベレトはアンヴァルの宮城近くに広がる貴族街の一角へと向かう。先の戦争の影響で空き家となったいくつかの邸宅の内、貴族街の外れにある一軒がアンヴァルにおけるベレトの自宅として貸し与えられているのだった。
他と比べてひと際小さな邸宅は、帝国貴族の基準に則れば粗末と言っても差し支えのないものらしい。ベレトからしてみれば大きく立派な邸宅だが、生まれた時から当たり前に貴族だった者が殆どである黒鷲遊撃軍の面々はこの邸宅に対して「猫の額ほどの広さ」だの「やや大きいだけの民家」だのと散々な言いようだった。先の戦争における一番の功労者にそんな家を与えるわけにはいかないと、貴族制度を撤廃しようというあのエーデルガルトでさえ難色を示したほどだ。
結局ベレトが「広すぎる家は落ち着かない」「使用人付きの邸宅を宛がわれるくらいなら近くの森で野営する」などと強弁したのと、リンハルトが「先生がこれがいいって言ってるんですから、いいんじゃないですか?」と適当に援護したことが決め手となって、ここがベレトの初めての持ち家となった。といっても、土地と建物の所有権はヘヴリング家に委ねられている。ベレトにアドラステア帝国の複雑な各権利を説いて判を求めようものなら、説明の最中に「やっぱり野営する」と翻意されかねない――そう言って面倒な手続きを一手に引き受けたのがリンハルトだった。もっとも彼はその面倒の殆どを自分の父親に丸投げしたのだが、そんな詳細も含めて全てはベレトに無断で勝手に進められた。たかが家一つの裏側に多種多様な思惑や権利書類が飛び交っていることなど露知らず、ベレトは案内を買って出たエーデルガルトに「それじゃあ、ここが今から師の家よ。……おかえりなさい」と庭先で告げられた言葉を、実に素直に受け取っている。
はじめはこれでも広すぎると思っていたベレトだが、荷ほどきや清掃を手伝ってくれたベルナデッタとドロテアから「引き篭もるには最適な大きさのおうちですよ、先生!」「これでも広いなんて、相変わらず無欲ですねえ。ふふっ、先生のそういうところ、いいなあって思います」とそれぞれに笑顔で言い募られ、それからじわじわと家自体に愛着が湧き始めた。今では素朴な花が植わる小さな花壇に彩られた庭先に立つたびに、ほっと肩の力が抜けるまでになっている。
余談だが、この家に決まるまでにベレトに勧められた数々の物件の中にはヘヴリング家が所有する別宅があった。ベレトはこれを「教え子の生家の世話になるわけには……」と丁重に辞退したのだが、本音は「たった一人のご子息に士官学校で手を出してしまった手前、親御さんに合わせる顔などあるわけがない」である。宮城でベレトがヘヴリング伯と顔を合わせる機会はこれまでに何度もあったのだが、一指揮官が内務卿と仕事場で相まみえるのと、しがない元教師が元生徒の親と私的な場において関わりを持つのとでは、心理的な負荷がまったく違う。実際のところは結局ヘヴリング家が所有する家に間借りしているのが現状だが、ベレトがそれを知らずに済んでいるのは本人にとってはこれ幸い、知らぬが花というものだ。
自宅に戻ったベレトは、早速出立に向けての荷造りを始めた。徒歩、飛竜、馬。どの移動手段を用いても対応できるよう、背負える荷物袋に必要なものを詰めていく。リンハルトと約束した週末まではあと数日。それまでにある程度は荷物をまとめてしまい、後顧の憂いなく残された時間をリンハルトとともに過ごしたかった。
元々武装も手荷物も過剰を好まないベレトの荷造りは早々に終わった。これから詳らかになる作戦の規模次第ではあと二、三くらいは物が増えるかもしれないが、一先ずはこれくらいで良いだろう。長旅に備えてそれなりの大きさになってしまった荷物袋は、あまり使っていない物置の奥深くに隠した。この荷物袋が万一リンハルトに検められてしまったら、隠している出立のことまで芋づる式にばれてしまいそうだからだ。
荷造り以外にも、ベレトがやるべきことは山積みだった。留守の間、家はともかくとして庭の花壇だけは世話をしたい。戦争終結直後に持っていた種を適当に植え付けた花壇から、新芽が伸び始めたばかりなのだ。せっかく芽吹いてくれたものを人間の都合で枯らしてしまうのは忍びない。庭師を頼むにも伝手がないため、誰かに聞く必要がある。相手を選ばなければ、リンハルトにまで伝わってしまうから、慎重に。
もし、万一のことがあった時にどうすべきかも考えておくべきだろうか。何を言わずともエーデルガルトとヒューベルトならば上手く処理してくれるだろうが、一度言葉を濁さずにすり合わせておいた方がいいかもしれない。そうするなら、相手はヒューベルトが良いだろう。エーデルガルトは優し過ぎる。彼女は表面上泰然と応じてくれるだろうが、固い鎧の内側でただの少女であるエルがきっと傷つく。
大抵のことはヒューベルトに任せておけば問題なさそうだが、ベレト自身にしかできないこともある。万一に備えた、リンハルトへの遺言状。正直考えたくもないし、それがリンハルトの手に渡ることがないように全力を尽くすつもりではいるが、遺さないわけにはいかない。戦場に絶対などないのだ。さっそく書き物机に向き合って筆記具を手に取ったが、結局一文字も書かないまま、ベレトは便箋を含めた筆記具すべてを引き出しの中にしまい込んだ。これは出立の直前でいい。それまでは悪いことは考えずに、ただリンハルトといられる時間に浸っていたい。
そのように何やかんやでベレトが忙しくしている間に時間は過ぎ、約束の週末はもう明日にまで迫ってきていた。もうすっかり日が沈み、アンヴァルの街が静かに眠りの時間を迎えようとしている。いよいよ明日か、とベレトが寝室で胸を弾ませていると、唐突に耳慣れない音が部屋中に響いた。それが呼び鈴の音だとすぐに気づけなかったのは、呼び鈴を鳴らすような来客が今までこの家を訪れたことは一度もなかったからだ。
夜更けといっても差し支えのないこんな時間に、いったい誰が。ベレトが最大限に警戒しながら扉を開けると、そこに立っていたのは意外な、それでいて待ち望んだ人物だった。
「先生、こんばんは。ふふ、ちょっと早いけど来ちゃいました」
「リンハルト……? 君、合鍵は」
「持ってますけど、夜遅いですし事前に連絡も入れてませんし、びっくりさせてしまうと思いまして」
「変な音が家中に響いて、そっちの方が驚いたんだが」
「あ、そうなんですか? すみません」
へらりと表情を崩して、リンハルトが笑う。言葉は謝意を表しているが、その顔は一切悪びれていない。ベレトほどではないにしろ、表情の動きが小さいリンハルトにしては珍しい顔だった。よく見れば白い頬はほんのりと色づいており、近づくと微かに酒精を感じる。
「珍しいな。酔ってるのか?」
「んん……? 酔ってませんよ?」
「酔っぱらいは皆そう言うんだ」
リンハルトの酔いがどの程度のものかはわからない。特にふらついた様子はないが、ベレトは念のためと自身の肩を差し出した。嬉しげに破顔して甘えるようにしなだれかかってくるリンハルトを支えながら、ベレトは玄関の扉を閉める。外の空気から切り離された室内では、ごく近くから漂う酒精と、それから嗅ぎ慣れない香油の匂いがよく分かった。
胸の内側をざらざらとしたもので撫でられたかのような不快感があり、ベレトは顔をしかめた。リンハルトは見目の手入れをしないわけではないが、そこまで熱心なわけでもない。普段使いしている髪用の油は、効能重視で無香料のものだったはずだ。それが今、ベレトの肩に乗った頭は甘ったるい香りを振り撒いている。香りの元になった花に思い当たるより先に、春をひさぐ女がいかにも好みそうな香りだと考えてしまい、ベレトはますます顔をしかめた。いつもは後頭部でまとめられている髪が、今日に限って解かれていることがまた疑心を煽る。
「せんせい」
もやもやと胸の内を曇らせるベレトにまったく気づいていない様子で、リンハルトはベレトの肩に額をこすりつけている。舌足らずに甘えて名前を呼ぶ声は、士官学校にあったベレトの部屋で聞いた声に、よく似ていた。くすくすと楽しげに笑うばかりのリンハルトを連れて、ベレトはひとまず居間に向かう。確か水差しが机の上に置きっぱなしだったはずだ。
リンハルトの足取りは意外にもしっかりしていた。ベレトの肩は支えるためというよりは、ただ甘えさせるためだけに貸し出しているようなものだ。動きだけ見ればリンハルト本人の申告通り、酔っていないと判断できたかもしれない。だがどちらにせよ、水は飲ませておくべきだろう。
居間の長椅子にリンハルトを座らせたベレトは、水差しを持ってくるため踵を返そうとして失敗した。長椅子の上にごろんと横たわろうとするリンハルトに、強く腕を引かれたからだ。咄嗟のことで身体の均衡を失い、ベレトは横たわるリンハルトの上に倒れ込んだ。長椅子の背もたれに手をついて、リンハルトを圧し潰す事態は何とか避ける。それなのに下敷きにされようとしている当の本人は、未だ崩れた均衡を取り戻せずにいるベレトの首の後ろに手を回して抱き寄せようとするのだ。強く振り払うこともできず、ベレトは長椅子の上でリンハルトを組み敷く形になった。ベレトの身体が作る暗がりの中、リンハルトはどこか蕩けた目で見上げてくる。抱き寄せられるまま、顔が近づけば近づくほど、花の香りが強く匂った。
「……珍しい匂いがする」
「そうですか?」
具体性に欠けるベレトの詰問は、ふわふわとした笑顔であっさりと流されてしまった。そのまますっかりベレトの頭を抱き込んだリンハルトは、からかうようにベレトの髪や耳のそこかしこを軽く食む。ここまで密着して初めて気づいたが、湯浴みの直後なのだろうか、リンハルトの髪は少しだけ湿っていた。そのことにまた、ざらざらとした不快感がベレトの胸の内側を這った。
「湯浴みしてきたのか」
「……先生と、したいことがあったので」
ベレトの耳にリンハルトの吐息が吹き込まれ、そのまま耳朶を唇が撫でた。胸のざらつきとはまったく異なる、痺れるような感覚が背筋を走り抜けていく。自身の、それから男の性のどうしようもなさに溜息を吐きたい気分になりながら、ベレトは上体をそっと起こした。頭を抱き込むリンハルトの腕は、それを止めようとはしなかった。
改めてリンハルトを見下ろせば、彼は実にわかりやすく欲情していた。白い肌に酒精がもたらす朱が映えて、頬を艶やかに彩っている。目尻は熔けるようにたれ下がり、青灰色の双眸には薄く潤みの膜が張っている。緩く開かれた唇の奥で、誘うようにちらちらと動く舌の赤さが鮮烈だった。
「……湯を、浴びてくる」
生唾を飲み込んで、ベレトは何とかそれだけを言った。「はい」とリンハルトが蕩けた声で応え、期待に満ちた目でベレトを見上げる。離れてしまった距離を惜しむように、彼は伸ばした手をベレトの頬に添えた。体温が低めなリンハルトにしては珍しく、その手は指の先まで驚くほどに熱かった。
「寝室で待ってますね」
どろどろに溶けた砂糖のごとく甘ったるい声に追い立てられるようにして、ベレトはふらふらと覚束ない足取りで風呂場に向かった。
風呂場でベレトは湯ではなく水を被った。もうすっかり暖かいとはいえ、まだ夏には程遠い。今夜は気温がやや低いのか、水はひどく冷たかった。頭からそれを被る度に、全身がぶるぶると震えて奥歯が鳴る。
どうにも釈然としないのだ。不安、猜疑、焦燥――とても歓迎しがたいそんな感情ばかりが、ベレトの中を這いまわっている。
まず、リンハルトがあんなふうに誘ってくることが珍しい。人並みに性欲は持ち合わせているだろうが、彼の欲の矛先は性的なことよりも知識か睡眠に向けられている時の方が圧倒的に多い。これまでにも誘われたことがないわけではないが、彼が用いる誘い文句といえば誘惑と呼ぶのは少し憚られるような、即物的で直截な、言ってしまえば色気も何もない直球の「寝ましょうか。あ、今のは性的な意味のやつです」である。ベレトもリンハルトほどではないにしろ褥に情緒を求める性質ではないため気にしていなかったが、今日の姿を見てしまうとあまりの差異に頭が混乱してしまう。
酒精に侵されているからかとも思ったが、そもそもこれも珍しい。リンハルトが酒を好むなんて話は聞いたことがなかったし、あそこまで酔っている姿を見たのは今日が初めてだ。自主的に飲んだ、あるいは飲まされたのだろうか。リンハルトに似合わないあの強すぎる花の香りは、一体どこで、誰に移されたものなのだろうか。
酩酊と移り香、湯浴みの跡、情欲。それらを何度丁寧に並べ直したところで辿り着く先はいつも同じ、ベレトにとって良くない結論だ。殆ど叩きつけるようにして、水を浴びる。もういっそ、思うさま貪りつくしてから考えようかとも思う。リンハルトだってそうして欲しくてあんな目を向けてくるのだろうし、何も問題はないはずだ。
自分を見つめる蕩けた視線と、触れた指先の熱さを思い出して、ベレトは深くため息をついた。何の憂いもなくあの熱に応えられたなら、どれだけ良かったことだろう。そんな詮無い思考を巡らせる虚しさに、ほとほと気分が沈んでいく。どれだけ荒々しく振る舞って、いかにやけっぱちな気分を煽ろうとも、結局のところベレトはリンハルトを傷つけるような真似はできないのだ。戦う前から無様に負けてしまったような情けなさに、漏れ出るため息が止まらない。
最後にもう一度だけ水を浴びて、ベレトは立ち上がった。水気を払って、髪を拭いて、しっかりと服を着込む。重い足取りで寝室に繋がる廊下を歩きながら、ベレトはこの先で待つリンハルトにどう話を切り出すべきか、そればかりを考えている。
そんなベレトがまんまと嵌められたのだと気づいたのは、寝室の扉を開けた瞬間だった。
「先生、おかえりなさい。ずいぶん遅かったですね?」
寝室の奥にある寝台に腰を下ろして、リンハルトは笑顔でベレトを出迎えた。その顔にもはや朱は差しておらず、声ははっきりと明瞭な言葉を紡ぐ。酩酊も酒精も、どちらも影も形もない。ほんの少し前、彼が確かに纏っていた妖艶さもすっかり掻き消えてしまっている。残っているものといえば、若干薄くなったように感じるきつい花の香りくらいだ。
まったく素面の顔をしたリンハルトの膝の上に、見覚えのある袋が乗っている。ベレトがこっそりと用意して物置の奥深くに隠した荷物袋だ。だがリンハルトの膝上のそれはぺたんと平らで、見るからに何も入っていない。ベレトが隠した荷物袋は、もう何も入らないくらいにいっぱいだった。重さもそこそこあったはずだ。ではリンハルトの膝上にある空っぽの荷物袋はよく似た別物なのかというと、そうではない。
ベレトが詰めた袋の中身は、すべて外に出されていた。寝室の床いっぱいに、大きさも形も異なる様々な旅道具が、いっそ恐ろしいほど規則的に並べられている。
同じ形などない幾何学模様とでもいうべき矛盾した光景を作り上げたであろう張本人は、その奥で悠然と口元に弧を描いていた。ベレトが隠れてこっそりと済ませた荷造りを、眇めた灰青色の瞳で無言のうちに責め立てながら。
リンハルトの提案で、話し合いは寝室ではなく居間で行うことになった。何しろリンハルトの独特過ぎる怒りによって、寝室の床はほぼほぼ埋め尽くされている。ベレトが水を被って悶々と考え込んでいる間、リンハルトがどんな表情で見つけた荷物袋から取り出した品々を並べていたか、考えるだけでも恐ろしい。心胆を寒からしめるとはまさにこのことだと、ベレトは文字通り痛感していた。
「まず事実確認からいきましょうか。戦争は終わりましたが、戦いは終わっていない。先生はこの先も戦場に立つ気ですよね。相手は……どこの誰かは知らないですけど、アリアンロッドを壊滅させた真犯人、ですかね」
「……合ってる」
長椅子に座るリンハルトはベレトの方を見ようともしないまま、顎に手をやって独り言のように言葉を並べ立てた。彼から少し離れたところで、ベレトは小さな腰掛けに座っている。リンハルトの推察に間違いはないので、素直に頷いた。この期に及んで見苦しく隠し事を続けようと思うほど、ベレトは愚か者ではなかった。
「そうですか。それで……先生は、僕をその戦場に連れて行きたくない。だから内緒で旅支度をして、それを隠していた。合ってますか?」
「……ああ、合ってる」
「わかりました。ひとまず僕が確認したいことは以上です」
リンハルトは淡々と告げ、それきり口を噤んでしまった。視線はついぞ、ベレトには一度も向けられることがなかった。怒っている。それも、ものすごく。ベレトだって、事が知れたらリンハルトは怒るだろうとは思っていた。だが正直なところ、ここまでとは思ってもみなかったのだ。
「……自分からも、いいだろうか」
「はい。何でしょう」
小さく挙手までしたベレトだったが、リンハルトはつれなかった。その視線は茫洋と虚空を見つめるばかりで、応じる声すらもいやに冷たい。自分のしたことはリンハルトをとんでもなく怒らせて、そしてそれ以上に傷つけたのだと、ベレトはこの時ようやく悟った。
「君が自分の……隠し事に気づいたのは、研究施設で会った時か?」
「正解です。わかりますよ、当たり前でしょう。他所で抱擁なんて絶対しない貴方が、あんなに必死に抱きしめてくるんですよ。何かあったんだって、そりゃあ察しますよ」
「……そんなにわかりやすかっただろうか」
「ええ、それはもう。その上、貴方は陛下と一緒にアリアンロッドに行ってたわけですよね。謎の禁術で消し飛ばされたとかいう、あのアリアンロッドに。ああそうだ、あれが教団の仕業だなんて僕は端から信じてませんでしたよ」
「それはまあ、そうだろうな」
「で、結局あれは誰の仕業だったんですか?」
「それは……一応、国の機密事項……なんだと思う。だから自分の一存では話せない。……すまない、君を信用していないわけじゃない」
「わかってます。そういうことなら、とりあえずはいいです。ああでも、敵の規模くらいは知りたいかな。大体でいいんですけど」
「詳しくは自分も知らない。そもそも調査があまり及んでいないらしい。敵は地下に巨大都市を築いていて、その内部はほぼ未知数だそうだ」
「……なるほど。聞くからに危険な任務ですね。先生としては、僕では足手まといとの判断ですか」
「違う」
ベレトは大きく首を横に振った。強く響く否定の言葉に呼応してリンハルトの目尻がぴくりと動いたが、彼は固い意志でベレトの方に視線を向けない。
リンハルトから目を逸らされ続けていることは、ベレトを毒のようにじわじわと蝕んだ。だがこれくらい何ということもない。それだけのことをしたのだという自覚が、ベレトにはあった。だからリンハルトの怒りも悲しみも、甘んじてすべて受け止める。時を戻すことができない以上、ベレトにできることはそれしかないのだ。
「違う。君がいてくれたら百人力だ。自分個人も、軍としても、先の戦争では君に助けられてばかりだった。未知の地下都市でも、それはきっと変わらない。でも」
決して自分を見返そうとしないリンハルトの顔を見つめ、ベレトは必死に言い募る。片思いをしているようだと、そんな場違いな感慨が胸を掠めた。まだ学生で子供だったリンハルトの、うなじで揺れる白い髪紐とたばねられた髪の尾を、つい追ってしまっていた士官学校時代のことを、なぜか不意に思い出す。
「……俺の、ただの我儘だ。もう傷つく君を見たくなかった。危ない目に遭わせたくなかった。……それでこうして君を傷つけているのだから、世話がないな」
言葉を重ねれば重ねるほど、ベレトの語気は弱まっていった。急速にしぼみ、最後には自嘲しか残らない。ついにリンハルトから視線を逸らして、ベレトは俯いてしまった。リンハルトからすぐの返事はなく、重苦しい沈黙が二人の間に淀みを作った。
「……先生」
実際には数分程度だろうが、ずいぶんと長く感じられた沈黙を破ったのはリンハルトの方だった。静かな声に呼ばれたベレトが顔を上げると、相変わらずリンハルトは目線を逸らしたまま。だが身体だけはベレトの方に向けられており、その両腕が招くように、あるいは許すように、緩やかに広げられていた。
そっと立ち上がって、ベレトはリンハルトにふらふらと歩み寄った。長椅子に座るリンハルトの前に立ち、少しの逡巡の後にベレトは屈めた身を彼の胸に預けた。すぐさま柔らかく抱きしめられたことに、心の底から安堵する。あの花の香りはまだ強く匂ったが、もう大して不快感はなかった。
「先生、また僕を置いていくんですか」
「……そうするつもりだった」
「わかりますよ、先生が僕を気遣ってそうしようとしてることくらい。だから先生もわかってくださいよ。僕は、貴方の生死も行方も知れない五年間が、何より辛かったんですよ」
「……うん。知ってたのにな」
間違えた、と呟いてベレトはリンハルトの腰に手を回す。縋りつくように抱きしめると、それよりも強い力でリンハルトの腕に抱きしめられる。これで許してもらえたとは思わない。話はまだ全部終わっていない。だが間近で感じるリンハルトの体温にどうしようもなく安らいでしまって、ベレトは息を吐いて目を閉じた。
「……君が、あんなに演技上手とは知らなかった」
「ああ、さっきのですか? いや、演技じゃないですよ。本当に酔ってました。先生が湯浴みに行った後、酔い覚ましを飲んだんです。ちょうどすごい効き目のものが出来たんですよ、研究の副産物で」
「……やっぱり、あの痴態は湯浴みに向かわせて、その間に家探しするためか」
「痴態って……。あのですね、相当恥ずかしかったんですよ、あれ。もう手段を選んでられないくらいに頭に血が上ってたんで勢いでやりましたけど、そうじゃなきゃ無理ですよ、あんなの」
「結果としては成功だったが、塩梅が難しい手だな。湯浴みに向かわせるどころか、そのまま襲われる可能性だってあっただろう」
「うわあ、策謀の試験の採点をされてる気分です。懐かしいな、この感じ」
「してやられたこちらが採点するのも変な話だと思うが……。だがそうだな、答え合わせはしておきたい」
ベレトは目を開くと、額をリンハルトの胸にすり寄せた。意識して思考を働かせなければ、気まぐれに髪の間を滑るリンハルトの指の心地よさにうっかり微睡んでしまいそうだ。
息が詰まるような怒りも悲しみも、だいぶ和らいできている。けれどお互いに顔を見合わせる勇気はまだなく、それでも離れがたい気持ちを堪えられないから、目を逸らしたまま固く抱き合っている。滑稽だと、ベレトは思った。本当に、笑ってしまうほどどうしようもない。こんな様でよくリンハルトを残して一人で行こうとしたものだ。
「君が気づいたのは研究施設の時だったな。実験を口実に週末まで時間を取ったのは、その間に裏付けと情報収集をするためか?」
「大体当たってますけど、実験ですか」
リンハルトの声が軽く弾んでいることに、ベレトは気づいた。顔を見なくてもわかる、きっと今リンハルトは得意げな顔をしている。
「僕が一言でも、そんなことを言いました?」
早速してやられた。舌打ちしたい気分だったが、あいにくとそんな行儀の悪い癖をベレトは持ち合わせていなかった。リンハルトが研究室で意味ありげにいかにも実験の途中といった机の上に目をやったのは、攪乱でしかなかったということだ。確かに彼は急ぎの用があると言ったが、それが実験に関する用だとは一言も口にしていない。ベレトが勝手にそう思い込んだだけだ。
「大勢に影響のない小さな策ですけど、貴方をやり込めたと思うと気分は悪くないですね」
「いや、影響がないことはないだろう。そのせいで自分は週末まで時間を稼いだ君の真意に気づかなかった。君から急ぎの用が実験のためだと詳しく聞かされていたら、むしろ疑ったかもしれない。多くの人間は他人のことは疑えても、自分のことはなかなか疑えないものだ。相手の思い込みを利用したのは良かったと思う」
「そうですか。……ふふ、幾つになっても、貴方に褒められるのは嬉しいですね」
おかしな会話をしているな、とベレトは思ったが、上から降ってくるリンハルトの笑い声が言葉通りに嬉しげなので、それだけで他はどうでもよくなってしまった。してやられた悔しさを上回って、かつての教え子の成長が愛しい。それをもっと知りたくなって、ベレトは答え合わせの続きに戻る。
「週末を設定しておいて、敢えて前日に来たのは不意を突くためか?」
「はい、そうです。”身体も精神も、均衡を崩してしまえば御するに容易い”――僕にそう教えてくれたのは貴方ですよ、先生」
「酔ったふりと……この匂いも、動揺を誘うためか」
「だからふりではないんですけど、まあ正解です。貴方が相手ですからね、植え付ける悩みの種は一つでも多い方が良いかと思いまして。ドロテアに貰ったんですよ、これ。香りが強すぎて失敗した、処分するって言うので、それで。自分でつけてても思いますけど、確かにきついですよねえ。で、動揺してくれました?」
「ああ、妬いた。君が酔って女でも抱いてきたのかと考えて、嫉妬で頭が沸くかと思った」
「え……、あ、そう……ですか」
ベレトのあまりに直截な悋気は、さすがにリンハルトも予想だにしていなかったらしい。目を丸くして言葉に窮するその顔をベレトは直接見ていないが、少しだけ溜飲が下がるような気持ちだった。けれども多少の意趣返しが叶っただけで、状況は変わらず圧倒的にリンハルトの優勢だ。いや、そもそもベレトは既に全面降伏するつもりではいるのだが。
「念入りが過ぎるとは思うが、効果的だったよ。この上なく」
「貴方の身体の均衡を僕が崩すのは、天地がひっくり返っても無理なので。なら狙い撃ちすべきはもう一方ですけど、貴方は精神も恐ろしく頑強だし、頭が良くて思考速度も速い。その均衡を崩そうと思ったら、物量で攻めるしか思いつかなかったんです。貴方にとにかく頭を使わせる。そのために疑念の種になりそうなものを片っ端からばら撒きました。予想外の出来事を貴方の前に積み上げて、とにかく考えさせて……そうすれば僕が貴方に考えてほしくないことから、貴方の気を逸らせるかもと思って」
「なるほど。それは君に対しても有効そうな策だな。勉強になる」
「……やっておいて何ですけど、やられたくはないですね」
「そういうものだろう、策なんて」
確かにそれもそうですね、と笑うリンハルトの声は穏やかだった。ベレトの髪を撫でながら「先生は向上心が強いですよねえ」とのんびりした口調で呟く。しばらくベレトの髪で遊んでいたリンハルトが、はたと手を止めた。たった今思い出したと言わんばかりの勢いで開いた口から、リンハルトにしては強めの言葉が飛び出してくる。
「そういえば先生、何なんですかあの舐め腐った隠し方は」
「……え、何の話だ」
「荷物です。貴方がこっそりまとめた荷物。何であんなところに隠したんですか? あれじゃ子供のかくれんぼにも劣りますよ。試験だったら文句なしの不合格です。貴方を相手に不遜は承知ですが、これだけは言わせてもらいますよ」
「……そこまで言うほどだったか?」
「ええ、そこまで言うほどでした。あの物置、ほとんど使っていませんよね。出入りもないから全体的に埃が積もっている。そんなところに隠したら、埃の跡ですぐばれるに決まってるでしょう。奥に押し込むのも単純過ぎて悪手です。手前の荷物の位置にどうしても違和感が出ますから」
わりと容赦のない駄目出しだった。確かに、そもそもリンハルトが家探しなどするはずがないと決めつけて適当に隠したことは否めないが、ここまで具体的に不手際を指摘されるとさすがに恥ずかしくなってくる。ベレトがしょんぼりとしていることに気づいたのだろう、リンハルトははっと口を噤むと、宥めるようにベレトの髪を梳く手の動きを再開させた。
「先生、本気で落ち込んでます?」
「……かもしれない。君の指摘がどうというよりは、君を侮っていた自分の傲慢さに気づいて自己嫌悪している、が正しい」
「ええ……。何だか面倒なことを考えるんですねえ、先生は。……まあ、今度僕が先生に教えてあげますよ。上手な物の隠し方」
「リンハルトは物を隠すのが得意なのか?」
「僕の特技ってわけじゃなくて……えっと、貴族の常識ですかね、ある意味。財産隠しなんて、どの家でもやってることですから」
「ああ、なるほどな」
この上なく合点がいって、ベレトは思わず笑ってしまった。リンハルトもほっとしたように、つられて笑う。
「答え合わせは、こんなものですかね。……はあ、まったく。先生が勝手に一人で決めちゃうから、僕がこんな策を弄する羽目になったんですよ」
「それについては反省してる、本当に。面倒をかけたな、すまない」
「はい。それで意趣返しってわけじゃないんですけど、僕も勝手に決めてきたことがあるんですよ。聞いてくれます?」
「……ああ、何だ?」
ひどく嫌な予感がしたが、耳を塞ぐわけにもいかない。ベレトが訊き返せば、リンハルトの返事はすぐにあった。
「ヘヴリング家の爵位継承権、放棄してきました」
「……は?」
ベレトは思わず弾かれたように顔を上げた。胸が跳ねるほどの至近距離で、リンハルトと真正面から視線がかち合う。ずっと合わなかった視線がまっすぐに自分を見つめることへの喜びが、困惑ですっかり掻き消されてしまっている。
リンハルトは平然とした顔で、ベレトを見つめたまま先を続けた。
「僕はもうヘヴリング家の嫡子でも貴族でも何でもない、ただのリンハルトです。自活能力は備わっていませんから、先生が責任取ってちゃんと面倒見てくださいね」
「……責任は言われなくても取るが……え? いや、君が実家を継ぎたくないのは知っているが、何で今……?」
「何でって。まさか先生、この期に及んで僕を置いて、一人で戦いに行こうとしてますか?」
きゅっとリンハルトの眉間に皺が寄り、ベレトを抱きしめる腕にも力が込められる。それはない、と慌てて首を横に振って否定するが、リンハルトの不機嫌は直らなかった。
「言っておきますけど、先生が無理やり僕を置いて行ったところで、僕は絶対に先生の後を追いますからね。先生がいる戦地までの道中、脆弱な癒し手に過ぎない僕はたった一人、果たして無事でいられるかどうか。先生は心配じゃありません? 絶対連れて行った方がいいですよ、そしたら先生が僕を守れるでしょう?」
「わかった、わかってる。置いて行ったりなんてしない。すまなかった。話を戻そう、継承権を放棄したって、いつの話だ」
「研究室で貴方と会った後です。週末まで時間を稼いだのは、この手続きのためですね」
眉間の皺をようやく伸ばしたリンハルトが、詳しく語った経緯はこうだ。
研究室で出会ったベレトの尋常ではない様子に、何か良くないことが起こったのだと直感したリンハルトはすぐさま思考を巡らせた。直前にベレトが視察していたアリアンロッドから、あの惨劇を引き起こした第三勢力との戦いを連想するのは容易かった。だがベレトはそんなことは一言も口にしない。何かを隠している様子だった。それは何か?
――ベレトの隠し事は、まだ戦いが終わっていないという事実そのものではないだろうか。巡らせた思考の先でそう結論づけたリンハルトは、これが真であるという仮定の基に動くことにした。どうしてベレトがそれを隠すのか。決まっている、自分を巻き込まないためだ。戦いが終わった後「ようやく君に、思う存分昼寝させてやれる」と喜ぶような人なのだ。リンハルトをこれ以上戦地に立たせるわけにはいかないと思いつめてもおかしくはない。
確かに、まだ戦わなければならないのかと思うと、リンハルトは憂鬱だった。戦場になんて立ちたくない。もう殺したくないし、死にたくないのだ。ベレトの気遣いはまったく正しい。だからこそ、リンハルトがそれを強く拒むなら、それなりの論拠を積み上げなくてはならない。ベレトの正しい優しさと気遣いを否定して、自分の我儘を押し付けるに適うだけの論拠を。そうして用意したものの一つが、リンハルトが持つ爵位継承権の放棄だった。
元々いつかは放棄するつもりでいたものだ。もはやヘヴリング家を継ぐつもりなど、リンハルトには欠片もない。むしろ良い機会だと思った。リンハルトが大貴族の嫡子であるという事実は、確実にベレトの後ろめたさを煽っている。リンハルトの両親は息子の考えを量りかねており、養子を貰う手続きを進めるか、一人息子を信じて待つか、どっちつかずの状態だ。リンハルトが半ば捨て置いている爵位継承問題は、ベレトや両親やヘヴリング家に関わる者たちにとって大変な頭痛の種なのだ。そんなものは、いっそなくしてしまった方が良いに決まっている。
研究室でベレトを見送った後、リンハルトは実験道具の片付けすら放り出してヘヴリング本宅へ向かい、父親に継承権の放棄を希望する旨を伝えた。手続き自体が色々と煩雑で、結局正式に受理されるまでに数日はかかったが、リンハルトの要請自体はすんなりとヘヴリング伯に受け入れられた。無駄に説得されることも、叱られることも、呆れられることすらもなかった。
リンハルトにとって一番予想外だったのは、継承権の放棄が成立した後に掛けられた言葉だ。「今も君が私の息子であることに変わりはあるまい」――しかつめらしい、いつも通りの顔をした父親が事も無げにそう言い放ったことを、未だリンハルトは飲み込み切れていない。ただ、いつか飲み込んで昇華できる日が来ると良いと思って、何となくしまい込んでいる。このことだけは、ベレトにも話さなかった。彼の後ろめたさをさらに煽ることにしかならなさそうだったから。
「秘密裏に先生が動員されるくらいです、相当危険な戦いになる予想なんでしょう? それなら貴族の称号はたぶん邪魔になるかなと思って、捨てました。周囲に変な期待を寄せられるのも面倒ですし。ヘヴリング家が云々とか余計なことを考える必要がなくなって、先生の気もちょっとは楽になってくれればいいんですけどね」
「……楽には……ならないな、すまない。君のことは、どうしても考えてしまうから」
「でしょうねえ、知ってます。だから考えさせないように、僕も色々考えたわけですし。先生と一緒にいるために必死なんですよ、こっちは」
リンハルトは軽やかに笑うと、抱きしめる腕をほどいてその手でそっとベレトの頬を包んだ。鼻先が触れ合う距離でベレトの目を覗き込み、リンハルトはそれまでの淡々とした口調を一転させ、ひどく真摯に問いかける。
「先生、連れて行ってくれますよね?」
「ああ。君にはまた、辛い思いをさせてしまうな」
「良かった。その分、貴方が守ってくれるって、信じてますから」
安堵に顔を綻ばせたリンハルトはすっかり脱力したようで、くったりとした身体がベレトに向かって倒れ込んでくる。長椅子からずり落ちそうになっているリンハルトを支えるために慌てて立ち上がったところで、ベレトの腕が強く引かれた。同じようなことがつい最近あった気がする――そう考える暇もなく、あっと言う間に既視感のある光景が眼下に広がっていた。長椅子に横たわるリンハルトに抱き寄せられて、またしても彼を組み敷いている。違うのはリンハルトの頬が紅潮していないこと、ベレトを見つめる双眸に鋭いくらいの知性が宿っていること、緩く弧を描く唇がしっかりと結ばれていること。あのきつすぎる花の香りにも慣れてしまったのか、時間が経って薄まったのか、もう嫌だとは思わない。
「先生、覚えてますか? 初めて先生の部屋で一緒に寝た時に、僕、お願いしましたよね。卒業後に親と話して、継承権を放棄して、先生のところに戻ってきたら、返事を聞かせてくださいって」
「ああ……」
ずいぶんと懐かしい話を持ち出されて、ベレトは感嘆とともに頷いた。覚えている、忘れるわけがない。ベレトにとっては苦い思い出だ。そんな約束をしておいて、五年もリンハルトをほったらかしにしてしまった。
五年の眠りから覚めて再会したあの日、目を合わせようとしないリンハルトに謝り倒すことしかできなかった情けなさが蘇り、ベレトはわずかに顔をしかめる。まったく成長していない。リンハルトはこんなにも立派に、少し怖いくらい上手に立ち回っているというのに。
「まあ厳密に言うと卒業できてませんし、最近はずっと一緒にいるわけですから先生のところに戻ってきたっていう感じはしませんけど」
ベレトを見上げるリンハルトの表情は穏やかだった。ベレトが過去を振り返って自省していることに気づきながら、それを責めるどころか愛しげに見つめている。
「遅くなりましたが爵位の継承権、放棄してきましたよ。……返事、聞かせてもらえますか」
その声がほんの少し、緊張で強張っていることに気づいた瞬間、ベレトの胸はいっぱいになった。どうしようもないくらいに溢れ出る愛しさで、胸も喉も、なにもかもが詰まってしまって息が苦しい。その苦しささえも愛しくて、ベレトはリンハルトの首筋に顔をうずめ、彼の頭を、背中を、思うがままに掻き抱いた。
リンハルトが「好きです」と、あどけなくも真摯な声で告げてくれたあの瞬間を、ベレトは思い出していた。長きに渡る戦乱の中、壊れてしまったもの、変わってしまったもの、喪われてしまったものが、数えきれないくらいにある。それでも壊れずに、変わらずに、失わずに済んだものだって確かにあるのだ。今もベレトとリンハルトの間にあるこの想いだって、あの時からずっと変わらない。
「……愛してるよ、リンハルト。死ぬまで離してやれそうにない」
「先生は相変わらず控えめですねえ」
吐息を感じるほど近くで響く、笑みを含んだリンハルトの声が、耳をくすぐる。
「僕は死んでも離してあげませんよ。……だから一緒いきましょう、ずっと」
ベレトは頷いて、リンハルトを抱きしめる腕に力を込めた。リンハルトの手も、応えるようにベレトの背中をそっと撫でる。
この先にあるものが幸福ばかりではないことを、ベレトもリンハルトも知っている。それでも、二人でいくと決めたのだ。嬉しくても、悲しくても。平和な街の中を、凄惨な戦場を、二人手を取り合って進んでいく。たった一つ、ずっと変わらない想いを、互いに抱え合いながら。
そうして進んだその先で、いつか望んだ未来に出会えることを信じている。何にも脅かされない幸福を、子供のような無邪気さで願っている。たとえそれがどこにもなく、決して見つからないものでも関係ない。
地上に天国がないのなら、作ってしまえばいいだけだ。互いの手さえ離さなければ、それはいつだって叶うのだから。
