再会:1185年 星辰の節
懐かしく優しい声に揺り起こされたベレトが最初に思い出したのは、目の前で牙を剥き猛々しく咆哮する白きものの姿だった。全てを薙ぎ払わんばかりの一吠えで自分の身体が塵芥のごとく吹き飛び、どこまでも落ちていったところで記憶はぷつりと途切れている。
頭でも打ったか、少し気絶していたようだ。たった1秒が生死を分かつ激戦の中で、教師であり指揮官でもある自分がこの様とは不甲斐ない。妙にぎこちない身体を動かして守るべき生徒たちの元へ戻ろうとするベレトに、無情な現実が突きつけられたのはこのすぐ後のことだ。たまたま出会った見知らぬ男は言った。今は一一八五年星辰の節。ガルグ=マク大修道院が陥落し、帝国軍に支配されてから五年もの月日が経っている、と。
俄に信じられなかった。確かに孤月の節にしては空気が酷く冷え込んでいるとは思ったが、この時期の寒の戻りは珍しくない。川の水面に映った自分の姿だって、記憶と寸分違わない。あれから五年も経過しているなどとは到底考えられず、男の勘違いを疑った。辿り着いたガルグ=マク大修道院の女神の塔で、気高く美しく成長したエーデルガルトに出会うまで、質の悪い冗談か何かだと思い込んでいた。
「師が姿を消してから五年も経ったのよ。私が……どれほど悔しかったと……どれほど心折れそうだったと思っているの!」
あんなにも現実が受け入れ難かったというのに、何もかもを敵に回してでも守りたかった彼女の言葉は、恐ろしいくらいにすんなりとベレトの脳裏に染み込んだ。五年という未だ実感の湧かない数字が、輪郭もあやふやなままじわじわと腑に落ちていく。
ふいに生徒たちと交わした約束の記憶が蘇った。日常会話の延長の他愛もないものから、面映い気持ちで頷いたもの、ほろ苦い感傷を連れてくるものまで、相手も時系列もばらばらに次から次へと湧きあがってくる。激動に揺れる仲間を案じ、皆の支えとなってほしいと珍しく素直に頼ってくれたヒューベルト。教えてくれと縋りながらも、自分の頭で考え自分の足で立つことを諦めなかったフェルディナント。
これはあの激戦の火蓋が切って落とされる直前の記憶だ。そう認識した途端、一緒に蘇ったひりついた空気の気配が脈絡もなく、穏やかな修道院に響く小鳥の声に塗り替わった。
空腹を訴えるベルナデッタに、どうにも外に出られないようなら食事を持ってくると言ったこと。先生にだっていつか勝つと拳を握るカスパルに、いつでも受けて立つと言ったこと。ふと思い出したのはどちらも生徒と交わした些細な約束だった。ベルナデッタは結局夜中にこそこそと部屋を出て何かを食べていたようで、ベレトの出番はなかった。カスパルとはそれから何度か手合わせをして、今のところは負けていない。この二人とは比較的上手くやれていたと思うが、女生徒との関わりではベレトの機微の疎さが仇になりがちだった。ペトラの腕や背中に刻まれた文様をよく考えもせずに見たいと口を滑らせてしまい、どうにも気まずくなったこともある。ドロテアにははっきりと私の人生に口出しをするなと釘を刺されて頷くしかなかった、苦い思い出も。
湧きあがるこれらの記憶を掻き分けた先で、蝶結びの白い髪紐と深緑の毛束が揺れた。学級で一番たくさんの約束を交わしたリンハルトは、ベレトの脳裏で頑なに背を向けたままだ。死なせないと告げた時の驚きに瞠られた目の色も、褥の中で抱きしめられながら聞いたあどけない声も、共に紡いだ思い出は何一つ忘れてなどいないのに、空想の中の彼は決して振り向かない。焦燥で身を焼かれる思いで、ベレトは喘ぐように目の前のエーデルガルトに尋ねた。
「……エーデルガルト、学級の……黒鷲の学級の皆は」
「安心して、皆無事よ。この五年間、貴方の生徒は誰一人として欠けていないわ」
「リンハルトも?」
「……リンハルト? え、ええ……彼ももちろん、一緒だけれど。今はちょうど、執務室に……」
執務室と聞くなりベレトは即座に走り出した。困惑するエーデルガルトの「師!?」という悲鳴のような声が背中にぶつかるが、今ばかりは構ってなどいられない。女神の塔から執務室まで、一気に駆け抜ける。五年の月日で錆びついた身体の鈍さすら、もはや気にならなくなっていた。
声掛けも忘れて、ベレトは執務室の重い扉を勢いよく抉じ開けた。一斉に向けられた怪訝な視線を跳ね除けて、ベレトの目はただ一人だけを映し出す。闖入者に騒然とする人影の中で、彼は平然と手にした書類に目を落とし、周囲の騒動を一切意に介していない。目の前のことに恐ろしいくらい集中するその横顔を、ベレトはよく知っている。濡れた森の色をした髪は記憶にあるより長く伸びて肩をゆうに越え、輪郭はやや硬質さを増してすっかり大人の顔立ちになっていたが、間違いない。間違うわけがない。
「ッリンハルト!」
口を突いて出た彼の名前は、発したベレト本人が驚くくらいに大きく響いた。一瞬硬直した横顔が視線を、顔を、順にこちらへと向ける。相変わらずどこか眠たげな碧眼が、ベレトを真正面に捉えるなり大きく見開かれた。
驚きに目を瞠るその表情はあどけなく、ベレトの記憶にあるリンハルトの面影を強く残している。彼の手から書類が滑り落ち、薄い唇が小さく動いて声もなく「先生」と象ったのは、願望が見せた妄想などではないと思いたかった。エーデルガルトから執務室のことを聞いてからずっと駆けっ放しの足は止まることなく、ベレトは遂に辿り着いたリンハルトに手を伸ばし、躊躇うことなくその身体を抱きしめる。腕の中のリンハルトは体格が記憶にあるより少し逞しくなっていて、本当に五年が経ったのだと思い知らされた。
五年。その数字の重さが今更のように伸し掛かる。鈍く痛むベレトの脳裏に、いつかのリンハルトの声がこだまする。
――たった一夜の思い出がずっと先生の傍にいられるとは思いません。だから先生の中の僕の居場所は、遠からずなくなってしまいます。
あの時ベレトは、そんなことはないと否定してやれなかった。どう弁明しようとも、あれは一夜限りの不埒な遊びでしかなかったからだ。触れてはいけないと知りながら手を伸ばした覚悟の重さは関係ない。一度でいいからと狂おしく求めた想いの強さも関係ない。教師と生徒でなくなれば、顔を合わせる機会を失えば、この熱は瞬く間に冷めていく。そのことを、リンハルトはよく理解していた。ベレトよりよほど現実を見ていたし、浮かされてもいなかった。学生の時分から、彼は恐ろしく聡い子だった。だからあんなことを言わせてしまった上に、否定もしてやれなかったのだ。
教師としても年長者としても不甲斐ないベレトを、リンハルトは一言たりとも責めなかった。不実な一夜を望んだベレトを胸に抱いて後ろ髪を撫でる手は、残酷なくらいに優しかったのを覚えている。
彼は誠実だった。リンハルトに抱きしめられて、その胸の中で言葉も呼吸も行き場を失った瞬間を、ベレトは今でも鮮明に思い出せる。彼の腕の力強さは言外に、この一夜を過ちになどしないと決意していた。彼のためを思えばその決意はベレトが手折るべきだったのに、一度夢想してしまった彼と歩む未来をどうしても手放してやることができなかった。
――先生、信じてください。
一夜の過ちでも許されないというのに、リンハルトがその道を踏み外そうとしているのを止めなかった。卑怯にも自分は口を噤んだまま、彼に全てを言わせてしまった。ベレトが自分を責め立てるその裏で全身を粟立たせたのは紛れもない歓喜で、そのどうしようもなさに洩れてしまった情けないうめき声すらも、リンハルトの胸に吸い込まれた。
――先生、好きです。返事は卒業後、会えた時に聞かせてください。
だからせめて、生徒ではなくなった彼と再び会えるその日まで、どれだけでも待っていようと決めたのに。再会の時が何十年後になろうとも、その時リンハルトが心変わりをしていようとも、伝えたい言葉は一つだけだったのに。
五年間生死も知れないままだった自分は、それすらもできなかったのだ。
それをはっきりと自覚した途端、耐え難い苦痛がベレトの喉を灼いた。謝罪の一言さえ声にならない。無意識にリンハルトを抱く腕に力が入ってしまい、わずかな身じろぎで抵抗されたベレトは慌てて腕の力を抜いた。
その時だった。こほん、と妙に聞き慣れた咳払いがベレトの耳を、そして意識を劈いた。
「……ちょっと、ヒューくん? 今いいところだったでしょ?」
「だからこそ、ですよ。我々を認知した上での振る舞いなら構いませんが、明らかに周りが見えておりませんからな。あれ以上続けさせては、我に返った時の衝撃たるや……いやはや、想像したくもありませんな」
「ヒューベルト、先生のため止めた、止めました? 優しい、です」
「はわ……はわわわわ……! り、り、リンハルトさんが赤くなってるの、ベル、はじめて見ましたああ……!!」
「おお、あんな真っ赤になってんのはオレもあんま見たことねえな!」
懐かしい声が口々に、何やらかしましく言い合っている。その内容については、完全に凍り付いた頭が受け付けを拒否して右から左へ上滑りしていった。錆びついたように動きの鈍い首を無理やり回して後ろを振り返れば、執務室入口の扉の前で茫然と立ち尽くすエーデルガルトと目が合った。その脇には沈痛な面持ちで額を押さえるフェルディナントがいる。彼は咄嗟にエーデルガルトだけでも止めようとしてくれたが、無情にも間に合わなかったらしいということだけがわかった。
これは、やらかしてしまったかもしれない。短い教師人生どころか、生まれてからこれまでの全てを含めても最大級の失態ではないだろうか。背筋を伝う冷たい汗でベレトはようやく我に返ったが、残念ながらもう色々と手遅れだった。
相変わらず動きの鈍い首を無理やりに動かして、ベレトは自分の腕の中にいるリンハルトを見つめた。背を丸め、顔を腕で完全に覆ってしまっている彼の表情は窺えない。だが長くなった髪の間から見える耳は、見間違えようもなく真っ赤に染まっている。隠されてしまっているその顔を無理やりにでも上げさせたい気持ちと、己のあまりの失態を思い迂闊に指先すら動かせない気持ちの狭間で、ぐらぐらとベレトの意識が揺れる。
流れてしまった気まずい沈黙を破ったのは意外にも、リンハルトの一声だった。
「……先生と二人にして。お願い」
それは恐ろしく低い、ほとんど唸るような声で、ベレトは一瞬それがリンハルトの声だと認識できなかった。戸惑いが伝播する中、真っ先に動いたのはリンハルトの幼馴染みであるカスパルだ。完全に固まっているベルナデッタとドロテアの背を押し、手を引きながら、彼は立ち尽くすエーデルガルトの隣をすり抜けてさっさと部屋を出て行った。気を取り直したらしいフェルディナントが茫然自失のエーデルガルトを伴って退室し、ヒューベルトとペトラもそれに続く。そうして彼の願いどおりに、広い執務室にはベレトとリンハルトのみが残された。
「……すまない」
無遠慮に抱きしめてしまった腕をほどき、一歩後ずさったベレトは酷く申し訳ない気持ちでその一言を絞り出した。リンハルトは答えない。顔を隠すように覆う腕こそ下ろされたが、俯いたその表情はベレトからは窺えず、彼が今何を思っているのかはさっぱりわからなかった。
「何がですか」
「え?」
「何が『すまない』なんですか」
リンハルトの言葉にあからさまな棘はなく、ただ尋ねているだけのようにも聞こえるが、心底そう思えるほどの暢気さをベレトは持ち合わせていなかった。どうにも責められている気がして、鳴りもしない心臓がぎゅっと痛むような錯覚を覚える。
「……人前で、いきなり抱きしめたりしたから」
言語化できる中で一番罪が重いだろうやらかしのことを口にしてみるが、リンハルトは反応しなかった。恐らく、聞いてくれてはいる。ただ、どうやら続く言葉を待っているようで、これでは不正解なのか、それとも足りないのか。ベレトにはどうにも判然としないが、ここでだんまりは悪手だということだけは痛いくらいに理解できた。口下手と寡黙さを言い訳に何も言わなければ取り返しのつかないことになると、そう直感して必死に言葉を探す。
「……五年間、記憶がない。谷底に落ちて、目が覚めたら川にいた。少し気絶していただけだと思ったのに五年も経ったと聞いて、信じられなかった。今もどこか実感が湧かない。俺にとっては、君とその……情を交わしたのは、つい数週前のことなんだ」
ベレトはそこで言葉を切ると身を屈めて、俯くリンハルトの顔を覗き込んだ。床を睨んで唇を引き結んだ表情は硬く、ベレトの視線にも応えない。感情が削ぎ落とされたその顔は肌の白さも相まって酷く冷たい印象を与えるが、ベレトは思い切って右手をそっとその頬へと伸ばした。拒否されることもなく指先が触れた彼の頬は、印象に反してほんのりと柔らかなあたたかさを伝えてくる。ほんの少しだけ勝手に許された気になって、ベレトはおずおずと両の手のひらで彼の頬を包んだ。頑なに無反応を貫いていたリンハルトの視線が揺れ、記憶よりずいぶんと落ち着いた色の碧眼が静かにベレトを映し出す。絡まった視線の中で真正面から彼の顔を見て、ベレトはようやく五年の月日を確かに実感しはじめていた。
「……大きくなったな、リンハルト」
「……身長は伸びていませんよ」
「背の話じゃない。……そうか、五年も経つのか」
リンハルトの頬を包む手が強張り、余計な力が入る。彼は一瞬だけ目を細めたが、特に何を言うでもなくされるがままだ。
「……思い出は永遠じゃない。五年が経っている。知っていたのに、君の中に自分がもういない可能性に思い至らなかった。身勝手に抱きしめて、恥をかかせた。君が今……愛している人がいるなら、その人も一緒に傷つける浅慮な行いだった。それを、申し訳ないと思っている。すまない」
「……ああ、自分が言った言葉が全部返ってくる。天に向かって唾を吐くとこうなるってことですかねえ」
吐いたつもりはないんですが、と苦笑交じりにぼやく声はベレトの記憶にあるよりずっと低いが、記憶どおりの口調の柔らかさを取り戻しつつあった。能面のようだった表情が緩むと、かつての彼を思い起こさせるあどけなさが確かに滲んだ。
未練がましく彼の頬を包んだままのベレトの手に、リンハルトの両手がそっと重ねられる。ベレトの体感では少し目を離した途端に恐ろしく綺麗に成長した教え子は、その口元に微笑みを浮かべて祈るように目を閉じた。
「あの日、僕は貴方に聞きましたよね。僕との思い出をどこまで連れてってくれるのかって。思いがけず僕が待たされる側になりましたけど」
「……すまない」
ちくりと刺してくるリンハルトに返せる言葉など、ベレトの貧相な語彙の中にはこれしかなかった。そればっかりですねと笑われて恥じ入る思いだが、何と言われようと他に言葉が浮かばない。
ゆるりと瞼を持ち上げて、リンハルトがベレトを見つめる。どこか微睡んだ瞳に映る自分の顔が、ベレトには断罪を待つ罪人のように見えてならなかった。
「僕はこの五年……ずっと貴方との思い出と共にいましたよ、先生」
だがリンハルトが下した沙汰はベレトが覚悟したよりもずっと、遥かに甘く優しいものだった。あまりの都合の良さに頭が現実だと受け入れられず、ベレトはただただ息を呑む。
リンハルトは重ねた手を下ろすと、そっと一歩踏み出した。さして遠くもなかったベレトとリンハルトの距離が更に縮む。近すぎる距離に、リンハルトの頬に添えていたベレトの手が自然とほどけた。それに後ろ髪を引かれる思いを抱いたのはベレトだったのか、それともリンハルトだったのか。
ごく自然に、そうするのが当たり前であるかのように、リンハルトがベレトの肩に額を預けてくる。甘えてすり寄ってくる猫のような仕草だった。同時に緩く背に回された両腕に抱きしめられて、ベレトはようやくこれは猫ではなくリンハルトだと認識する。何ともおかしな話で、無性に笑い出したいような泣き出したいような、綯い交ぜな気持ちが瞬く間に胸を占めた。
「一夜の思い出なんて、すぐに食べ尽くしてしまうと思ったんですけどね。自分がしつこい性質の小食で良かったです」
ぎゅっと強く抱きしめられて、ベレトは咄嗟にリンハルトの胸に縋った。ずいぶんと広くなったように感じる背に手を回し、その身体を抱きしめる。呼応するようにしなだれかかるリンハルトの重みが愛おしくて、彼を抱き寄せようと腕が勝手に力みだす。いっそ一つに溶け合うくらいに触れ合いたいと願う情動は互いの服すら疎んでいて、だから人は褥で一糸まとわず抱き合うのかと、思いがけず得心してしまった。
「……でも最近は、先生の顔も、声も……体温も、思い出せなくなってきてました。諦めたくないのに、日を追うごとに諦めるしかないような気がして。それなのに、貴方は本当に……いつも時宜にかなって現れますよね。ああ、ずるいなあ……。もう少し遅かったら、忘れられたかもしれないのに」
「……本当に、すまないと思ってる。でも俺は、君に忘れられていなくて嬉しい。間に合ってほっとした」
「そういうところも、本当にずるいんですから。……はあ、いいですよ、もう。怒ってるの勿体ないし、疲れました」
そう言って笑うリンハルトから伝わる微かな振動に、ベレトは目を瞠る。
「……怒ってたのか」
「貴方にそのつもりがなくとも、こちらとしては五年捨て置かれていたんですよ。怒らないわけあります?」
「そう……か。そうだな。すまない」
「いいですよ。僕が忘れかけた貴方を全部、また思い出させてくれるなら」
リンハルトが顔を上げ、蕩けたその目でベレトを見つめた。鼻先が触れ合う至近距離で、かち合った視線が熱された砂糖のように甘く溶ける。
ああ、と小さく頷いて、ベレトは目を閉じた。相手を希って寄せられた唇がどちらのものだったのか、互いに求め合う二人にとってそれは些末な事だった。
「ところで貴方の可愛い教え子全員に僕たちの関係がバレましたけど、どうします? 正直、僕はこの部屋をどう出たものかすらわからないんですけど」
「……本当にすまない……」
