「なあ、リンハルト」
書き物机に向かって手紙か何かを書いていたらしいカスパルから唐突に声を掛けられて、揺蕩っていたリンハルトの意識が浮上する。
我が物顔で寝台を占拠して寛ぎきっているリンハルトだが、ここはカスパルの部屋だ。常に本が散乱し、足の踏み場がなくなってしまうことすらあるリンハルトの自室とは違い、本人の破天荒な言動に反してカスパルの部屋は比較的整然としている。乱れたところがあるとすれば棚の上だが、積まれた本はリンハルトが暇つぶしに持ち込んだもので、置かれた手紙は封が切られていないことから貰ったばかりなのだろう。入学以来、カスパルは頻繁に手紙を貰っている。尊敬する父親からの手紙なら届いた瞬間に封が切られているはずなので、何通かある未開封の手紙はカスパルを贔屓する誰かからの想いが込められたものかもしれない。以前は鍛錬にかまけて読みもしないこともあったが、最近はきちんと返事を書くようになったので貰う量が増えたようだ。
夜の入浴後にカスパルの部屋を訪れるのは、リンハルトの日課だった。常日頃から鍛錬に励むカスパルは自室に良質な飲用水を常備しており、入浴後の水分補給には困らない。加えて部屋が二階にあるため風通しが良く、部屋の主を差し置いて堪能できる寝床まであるとなれば、こんなに都合の良いものを利用しない手はないだろう。そもそもリンハルトとカスパルは連れ立って浴室を利用することが多かった。限界を目指そうとするカスパルの首根っこを引っ掴み、浴室から引きずり出すのはリンハルトの仕事だ。これはその働きに対する正当な報酬だと、リンハルトは思っている。
報酬の微睡みを貪っていたリンハルトが目を開けると、椅子に座ったまま寝台の方を振り返るカスパルと目が合った。いつも立て板に水の勢いでまくし立ててくるカスパルが、続く言葉を探すように視線を逸らす。珍しいこともあるものだと、リンハルトは目を瞠った。
「何? どうしたの?」
「……お前の部屋、虫とか出るか?」
カスパルが珍しく迷いに迷って口にした問いかけはあまりに突拍子もなく、リンハルトはぽかんと口を開けたまま、彼の言葉を頭の中で反芻していた。虫。暗に部屋が汚いことを責められているのだろうか。それはないだろう、カスパルはそんな遠回しな言い方をしない。恐らく言葉通り、虫が出るかどうかを訊いている。
「こんな寒い時期に虫なんてそうそう出ないよね」
カスパル相手に言葉の裏を読むのも馬鹿馬鹿しい。リンハルトは寝転がったまま器用に肩を竦めて答えた。今は寒さ厳しい守護の節、虫の姿など温室でも滅多に見かけない。自室の惨状を鑑みるに紙魚は無限にいそうではあるが、カスパルが紙魚を虫にカウントするとも思えないので問題はないだろう。
リンハルトの返答に、カスパルは納得いかないという顔をしながら「そうだよな」と頷いた。表情と動きが噛み合っておらず、これもまたカスパルには珍しいことだ。
「本当にどうしたの、カスパル?」
「うーん……お前、ケガしてねえよな?」
「怪我? してないよ、してたらさっさと治してる」
「だよなあ。だから虫に噛まれたかなんかだと思ったんだよ。でも虫なんていない時期だし、それに色が……血とか痣っぽく見えたんだよな。でも血だったらお前絶対すぐに拭うだろうし、そもそもケガを放置しとくやつじゃないし、なんなんだって思ってよ」
「……ああ。そういうことか」
カスパルの話はまったく要領を得なかったが、リンハルトにはそれで十分だった。先ほどの入浴の時に、入浴着の隙間から身体を見られてしまったのだろう。見えるところに痕を残さないよう気を配られてはいるようだが、入浴着は薄着で頼りなく、その上浴室ではカスパルと二人きりだったので油断していたのかもしれない。
腕を組んで考え込んでしまっているカスパルは、純粋に心配してくれているようだった。次男坊とはいえ貴族の家に生まれて教育を受けている以上、その手の知識がないわけではないだろうが、色恋に興味がない性質も相まって正解に辿り着けなかったようだ。それに貴族の男が『指南役』から受ける教育は、あくまで子種を吐き出して世継ぎを孕ませるための作業に過ぎない。血痣を相手の身体に刻むような、いわゆる『下賤なやり方』など、リンハルトだって知らなかった。――ほんの少し前までは。
血が苦手なリンハルトを慮ってか、血という単語すら言い淀むカスパルは険しい顔をしている。自分の身をこんなにも案じてくれる友人など他にいない。そう思うと、隠すやら誤魔化すやらの選択肢は、リンハルトの頭から霧のように消え失せた。このくらい、知られたところでどうということもない。リンハルトは今日読んだ本の内容を諳んじるくらいの軽さで、口を開いた。
「あのさ、カスパル。僕、先生と寝てるんだ。その痕だと思うよ、それ」
「……寝てるって……昼寝のことじゃないよな?」
「うん。君が想像している意味で合ってるよ」
「先生って、うちのベレト先生のことだよな?」
「うん、そうだよ」
「……先生が、お前にケガさせるようなこと、したってことか?」
「怪我じゃないってば。ほら」
おもむろに上体を起こしたリンハルトは、自身の寝間着の前身頃を躊躇いもなくはだけさせた。露わになった白い胸部や腹部のところどころに、赤黒く情交の痕が残っている。カスパルはそれを目にするなり、怯んだように少しだけ身を引いた。しばらくして落ち着いたのか、彼は立ち上がるとリンハルトの傍に寄り、晒された痕にそっと手を伸ばして肌に触れた。
「……痛くないか?」
「全然。僕は肌が白くて目立つから、痛そうに見えてしまうのかもね」
「ケガじゃないなら、良かった。……けど、こんな……」
「一方的にされてるわけじゃないよ。僕も先生にやってるし、何なら先生の身体にはもっと痕が残ってると思う。驚くよね、先生がいた傭兵の世界ではこういうやり方は普通なんだって。たぶん市井の人たちの間でもそうなんだろうね。僕たち貴族は家の存続のために必要な知識だけを選りすぐって与えられているんだって実感したよ」
リンハルトは軽い口ぶりでそう言って、たくし上げた寝間着を戻して整える。寝台の脇に佇み、リンハルトを見下ろすカスパルの表情は複雑そうだった。具体的な『やり方』など想像出来るはずもないカスパルは、リンハルトの身体に残る痕がどのようにしてつけられたかなどわからないのだろう。そのためか、殴る蹴るなどの暴力によって刻まれる痣と区別がついていないようだった。
「……お前がさ、オレが喧嘩でケガすんの嫌がる理由が、ちょっとわかった……」
「そう? それは嬉しいね、君に理解してもらうのは難しいと思ってたから」
「オレは喧嘩で出来た傷は勲章みたいなもんだし気にしてないけど。お前から見たら、こんな感じに見えるんだろうな。痛そうで、なんかオレまで痛くなってくる。……お前はきっと、好きでやってるだけなのにな」
「うん。僕も君が好きで喧嘩をしているのを知ってるから、止めようとは思わない。だけどどうしようもなく心は痛むから、勝手に心配するし嫌な顔もする。これは僕が勝手にやってることだから、君が気負うことは何もないよ」
「そこまで言わなくてもわかってるって。お前と先生がしてることを止めようとか、横から口を出そうとか、そんなことは考えてねえよ。でも……」
カスパルはそこまで言って、躊躇うように口を噤んだ。ベッドの上で座り込んだまま、リンハルトはカスパルを見上げる。彼は泳がせていた視線をリンハルトに定めると、困ったように眉を下げて、小さな声で吐き出した。
「……何で、オレにそんなこと言っちゃったんだよ、お前」
「……隠していた方が良かったかな」
カスパルの言葉がリンハルトの心にちくりと刺さり、そのせいで反応が遅れてしまった。カスパルが気付くか気付かないかは微妙なところだが、出来るなら気付かないでほしいと、リンハルトは切に願う。
何でも何も、リンハルトはただ親友に隠し事をしたくなかっただけだ。自身の性事情を吹聴するような趣味はないが、カスパルに誤解から余計な心配をかけているのなら、正直に打ち明けて問題ないと伝えたかった。リンハルトだって、教師との情交など一般的には醜聞でしかないことくらい理解している。下手な相手に知られようものなら下衆な勘ぐりを入れられて、尾鰭羽ひれを付けられて、娯楽として消費されるだけだろう。だがカスパルはそんなことはしない。「そうか、そういうもんか」と、いつものように素直に頷いてくれるものだとばかり思っていた。
――思っていたのだが、話題が話題なだけに、その認識は甘かったのかもしれない。カスパルがリンハルトを貶めるようなことをするはずもないが、彼にだって聞きたくない話くらいはあるだろう。自分のことばかりでカスパルの心情を無視してしまっていたことに今更気付いたが、こぼれた水は返らない。にわかに後悔で濁ってきた心中を苦く思い、リンハルトは「ごめん」と一言呟いた。それを聞くなりカスパルはハッとして目を見開き、大きく首を横に振ると、リンハルトの肩を勢いよく掴んだ。
「いや、お前が謝ることなんてなんもねえよ! そうじゃなくて、オレが隠し事苦手なの、知ってるだろ?」
「苦手……というかそもそも隠し事しないよね、君」
「そうだよ! だからどーすんだよ、オレがお前と先生のその、あれこれをうっかり洩らしちまったら! オレ、お前や先生にそんなことで迷惑かけたくねえんだよ!」
リンハルトの肩をがくがくと揺さぶって言い募るカスパルは、本気で焦っているらしく必死の形相だった。そこには純粋にリンハルトのことを案じる感情だけが浮かんでいて、侮蔑も軽蔑も、困惑すらも存在しない。しばらくぽかんとしてカスパルを見つめていたリンハルトは、自然にこぼれかけた笑い声を堪えるべく、口を押さえた。堪えきれなかった笑い声が吐息と一緒に洩れる度に、肩の力が抜けていく。こんなことくらいでとどれほど強がってみせたって、本心は不安で仕方がなかったのだと身をもって思い知った気分だった。それこそこの幼馴染みに寄せる信頼すらも揺らぐほどに不安だったのだと一度認めてしまえば、心は驚くほど軽くなった。
吹っ切れて声を上げて笑い始めたリンハルトに、カスパルがつられたように声を荒げる。
「笑い事じゃねえんだって! 困るのお前だぞ、リンハルト!」
「いや、大丈夫だよ。隠そうとか思わなくていいし、洩れたら洩れた時だよ」
「へ? そうなのか? でも教師と生徒がって、さすがにバレたらヤバいだろ……?」
「うん。でも秘密みたいに思わなくていいから、自然にしてて。それなら出来るよね?」
リンハルトがそう言い聞かせれば、カスパルは自信なさげに頷いた。納得もしていないし不安だがまあそれくらいなら、という彼の心境が手に取るようにわかるが、リンハルトに不安はなかった。
カスパルとは長い付き合いだが、リンハルトは彼に傷つけられたと感じたことは一度もない。隠さなければと焦らせなくても、カスパルはリンハルトとベレトの関係を言いふらすような真似はしないだろう。そんなことをすればリンハルトが困るということを、カスパルはちゃんと知っている。それなら、大丈夫だ。カスパルなら大丈夫。長年一度の喧嘩もなく二人で過ごしてきた経験を根拠に、リンハルトはカスパルのことを信じている。
カスパルはしばらく不安そうにしていたものの、肝心のリンハルトが上機嫌なのだから自分が悩んでいても仕方がないと割り切ったらしい。寝台の縁に腰を下ろすと、握り拳をリンハルトの額にこつんと当てた。
「……まあ、良かったぜ。変な病気とか、ケガとかじゃなくて」
「うん。……でも、見せちゃったのは悪かったよ」
「ん? あの痕のことか? 悪かったって、何がだ?」
「気持ち悪いかなと思って。さすがに君と僕の間柄でも、ああいうものはさ」
「何でだよ。オレが喧嘩で負う傷みたいなもんなんだろ? じゃあお前にとっては勲章じゃねえか。それとも、ホントはイヤなのか?」
「……勲章かあ。そうだね、うん。いやあ、カスパルにそんな表現をする感性があったなんてね」
気遣うように、励ますように当てられた拳から伝わる体温が、じんわりと良くない思考を溶かしていくようだった。今更だが無性に気恥ずかしい気持ちになって、リンハルトはカスパルの拳からそっと逃げるように横になると、衾の中へと潜り込む。カスパルはあからさまに逃げを打ったリンハルトを追うでもなく、盛り上がった衾をぽんぽんと軽く叩くと、立ち上がって机の方へと戻っていった。
再び机に向かって書き物を始めたカスパルの背中をぼんやりと眺めていたリンハルトは、にわかに重くなっていく瞼の重力に逆らわなかった。筆圧の高いカスパルの独特な筆記音と、時々紙をめくる音だけが響く部屋の中で夢路を辿る。カスパルがいつも通りのカスパルでいてくれる安心感は、微睡むリンハルトの背を優しく押した。
柔らかな眠りの中に落ちていくリンハルトの脳裏に、暗い部屋でうずくまり、声も上げずに泣く小さな背中が過ぎる。その背中を抱きしめて、越えてはならない一線を踏み越えたあの夜を、リンハルトは忘れない。誰に間違っていると糾弾されても構わないし、他ならぬ彼に拒否されない限りやめるつもりもない。決して離してやるものかと誓ったのだ。その過ちで得た痕を、これは勲章だと心から誇れる、その時まで。
