「お前が先生と結婚しなかったら、隣にいたのはオレだよな」
修道院の調理法で作られたミートパイを頬張りながら、カスパルはそう言い切った。一切の疑問が挟まる余地のない断定的な言葉は、同じ卓を囲む向かい側のリンハルトに向けられている。解釈のしようによっては横恋慕の告白に聞こえなくもない内容だが、カスパルはそのようなどろどろとした感情とはまるで無縁とばかりに軽い口ぶりだ。対するリンハルトはといえば、珍しいことにぽかんと口を開けたまま硬直している。手に取ったブルゼンをちぎろうとする瞬間、彼の時間が完全に止まってしまったかのようだった。
「え、何。どうしたの、急に」
「旅してると時々考えるんだよ。お前が先生と結婚してなかったら、オレは絶対お前を誘ってたからな」
「あ、ああ。そういう……」
まだ硬直が解けていないのか、リンハルトはぎこちなく頷いた。その顔はほんのりと赤く、目線が気まずげに泳いでいる。言われた言葉に照れたのか、親友の言を深読みしてしまい恥じているのか、どちらなのかはわからない。リンハルトは小さくちぎったブルゼンを口に放り込むと、ゆっくりと咀嚼を始めた。彼なりの時間稼ぎなのだろう、少し縮こまって口をもぐもぐと動かす様子は小動物を彷彿とさせる。だが椅子から立ち上がればカスパルより高い身長の男なのだと思うと、妙におかしい光景だった。
アドラステア帝国のみならずフォドラ全土に根を張る悪意を殲滅した後、諸々の雑事を早急に終わらせて隠居を決め込んだリンハルトは、今は帝国の端の片田舎にある小さな家で二人暮らしをしている。この家のことを知る者は限られており、リンハルトの幼馴染みであるカスパルはその数少ない内の一人だ。戦後すぐに放浪の旅に出たカスパルは、時々こうしてふらりとこの家を訪れては、リンハルトに旅の思い出を語って聞かせたり、逆にリンハルトの他愛ない話をうんうんと頷きながら聞いたりしている。土産は話だけの時もあれば、遠い地の特産品やすぐそこの街で買った軽食を両手に抱えてくることもあった。
今回の土産は旅先の市で見つけたという古書だった。今も昔も豪胆な性格は変わらず、細やかな気遣いとは無縁に思えるカスパルだが、ことリンハルトに関しては好みを熟知しているのか特別な嗅覚が効くのか、土産をことごとく外さない。今回の本もアビスの地下書庫にすらない貴重な本だったらしく、リンハルトはいつになく感激した様子で受け取った本を大事に抱えていた。さっさと立ち去ろうとするカスパルをわざわざ引き留めて手ずから茶席を用意するほどだから、相当嬉しかったのだろう。ちょうど腹が減っていたというカスパルの一言でお茶というよりは早過ぎる夕食のような卓になってしまっているが、それも彼ららしいと言えなくもない。
ひとくち分のブルゼンにたっぷり時間をかけて、リンハルトはようやく気を取り直したようだった。何も気にしていない様子でミートパイを頬張っているカスパルを見つめ、小首を傾げる。
「どうだろうね。僕が旅なんてするかなあ」
「でもお前、オレが誘ったら断らねえだろ?」
さも当然とばかりに言うカスパルは、結婚してなかったら、とついでのように付け加えた。その一言でリンハルトが目に見えて怯んだ様子で黙り込む。傍から見れば珍しい姿だが、幼馴染みであるカスパルにとっては見慣れたものなのだろう。何を言うでもなくじっとリンハルトの返事を待つカスパルもまた珍しく静かだが、リンハルトにとってはこちらも見慣れたものなのかもしれない。
「……まあ、そうだね。独り身で君に誘われたら、断らないと思う」
「だろ? だからさ、旅してるとふとした時にお前がいたら何言うかとかどうするかとか、そういうことを思ったりするんだよ」
「ああ。昔から君は良さげな木陰を見つけると、僕を寝かせて感想を聞きたがったよね」
「おう、今でも同じことしようとしちまうんだよな。他にもそうだな、綺麗な景色見たらお前に見せたいって思うし、美味いもん食ったらお前にも食べさせたいって思う。オレ、旅先でしょっちゅうお前のこと考えてるんだぜ!」
リンハルトは遂に食べかけのブルゼンを皿に置き、無言で額に手をやると俯いてしまった。照れているのだろうが、顔がはっきりと見えないため怒っているような素振りに見えなくもない。だがこの場に彼の感情を読み違えるような付き合いの浅い間柄は存在しないため、リンハルトが隠したかっただろう気恥ずかしさは残念ながら筒抜けだった。
「カスパル、君ねえ……」
「おう、何だ?」
「……まあ、いいや。僕も君のことを忘れたことはないよ。今日もミートパイを作ってる時、元気にしてるかなって考えてた。まさかタイミング良く訪ねてくるとは思わなかったけど」
「これ、リンハルトが作ったのか?」
「少し手伝っただけ。ほとんど先生が作ったよ」
「へえ! ありがとな、すっげー美味い!」
「どういたしまして」
眩しい笑顔を惜しみなくさらけ出すカスパルに釣られてか、リンハルトも目を細めて穏やかに笑う。学生の頃から二人ともずいぶん歳を重ねたが、カスパルの太陽みたいな明るい笑顔と、リンハルトの静かで穏やかな微笑は昔のまま変わらない。
この家にある一番大きな器に入ったパイを瞬く間に平らげたカスパルは、空っぽの皿に視線を落とすと彼にしては小さな声で呟いた。
「これが寂しいってことかもなあ」
「え? あ、足りないならおかわりあるけど」
「パイの話じゃねえよ、お前の話だよ」
「僕?」
「おう。いない奴のことずっと考えてんだから、オレはお前がいなくて寂しいってことか?」
「……いや、それを僕に聞かれても」
リンハルトは困ったように眉を下げて、首を傾げた。今回は辛うじて恥ずかしさよりも困惑が勝ったらしい。カスパルはといえばいつになく神妙な様子ではあるものの、自分の心情を語っているにしてはどこか他人事だ。
「前にここ寄った時にさ、ちょっと考えたんだよな。お前をいっそ、無理やり担いで連れてっちまおうかって」
そう言ってカスパルはお茶を呷った。からりとした声音に、やはり粘度の高い情念は一切感じられない。器を音もなく茶托に戻して、カスパルはリンハルトをじっと見つめた。放浪生活も長いだろうに、お茶を飲む所作には育ちの良さが滲んでいる。
「でもさ、いざ顔合わせたら、お前凄え幸せそうじゃん。そんなこと出来るわけねえよな」
「……あのさ、カスパル」
「おう」
「それ、今する話で合ってる?」
「ん? 何かまずかったか?」
「まずいと言うか……その、先生、いるんだけど」
気まずげなリンハルトの一瞥に続いて、カスパルの視線が向けられる。向かい合って座る二人と同じ卓を囲む自分――リンハルトの伴侶である『先生』に。
そう、この場にいるのはリンハルトとカスパルだけではない。カスパルが訪ねて来た時にドアを開けて応対したのは自分だし、思わぬ土産に喜んだリンハルトが食事の席を用意する際に手伝ったのも自分だ。そして仲睦まじく会話する二人と同じ卓を囲んで、その話を聞きながら見守っていた。最初から今の今まで、ずっと。カスパルがパイを褒めてくれた時に返事をしたのは自分なので、何なら会話にも混ざっている。
リンハルトが珍しく焦っているのが面白い。伴侶の目の前で親友から「拐おうかと思った」などと言われては焦るのも無理はないと思うが、その反応を引き出している当の本人は無邪気に笑うばかりだ。
「何言ってんだよ、リンハルト! むしろ先生がいなきゃしねえよ、こんな話。だって聞きようによっちゃ、オレがお前を口説いてるみたいになっちまうだろ? やましいことがなくても二人きりでコソコソすんのは先生が心配するし、お前も先生を心配させるのはイヤだろうしなあ」
「えっ、そんなこと考えられるようになったの? 凄いね、旅先で情緒が育った?」
「おう! オレは一生進化し続ける男だぜ!」
「成長と進化は違……まあいいや、うん。その成長は君の相棒のおかげかな。その相棒がいないところで幼馴染みを口説くなんて、君もずいぶんと悪い大人になっちゃったんだね」
「えっ、オレ悪いのか? これでもお前のこと、ちゃんと考えてるつもりなんだけどよ」
「君ねえ……。ああもう、人の心配より自分の相棒を心配しなよ。僕のことばっかり気にしてさ、妬かれてもしらないよ?」
沈痛な面持ちでリンハルトは頭を抱えてしまったが、それはカスパルの指摘が図星だからなのだろう。リンハルトは感情を揺さぶられた時、表情や態度にはあまり出ないが、口数があからさまに多くなったり逆に少なくなったりする。照れた時は特に顕著で、わざわざ小難しい言い回しでまくし立て、話を微妙に逸らそうとしてくる癖もある。自分にはあまり照れてくれないので、こうした姿を実際目にするのは珍しい。今日は彼の珍しい姿をたくさん見ている気がする。小難しい言い回しも、相手によってきちんと難易度調整されるのだと知れたのは嬉しい発見だ。
「んー、オレたちはそういう仲でもねえしなあ。気にしないんじゃないか? つうか今日ここに来たの、オレがリンハルトのことばっか話すから『そんなに寂しいなら会いに行け』って蹴り出されたからだしな。そんでオレって寂しがってんのかあって考え出したんだよ」
「うん、まあそんなとこじゃないかなとは思ってたよ。……それで、カスパルはどうしたいの? 今日こそ、僕を無理やり連れて行く?」
「しねえよ! さっき言っただろ、そんなこと出来るわけねえって」
きっぱりと否定しながら、カスパルは荷物を手に立ち上がった。座ったままのリンハルトと自分をぐるりと見渡すその顔は、寂しさなんてものとは到底無縁に思える眩しい笑顔だ。
「よっしゃ、元気出た! ありがとな、二人とも。また来るからさ、その時も元気でいてくれよ!」
「は? えっ、ちょっと……」
家中に響き渡る大声で宣言すると、カスパルはぶんぶんと両手を振った。快活で無邪気な仕草は、出会ったばかりの頃からずっと変わらない。恐らくもっと昔、リンハルトとカスパルが出会った頃から変わらないのだろう。
来た時と同じく唐突に、まさに嵐のような勢いで去っていこうとするカスパルを、リンハルトは目を丸くして見送っている。論理立った話し方をするリンハルトからしてみれば、話を途中で一方的に切り上げられたようなものだろうから、唖然とするのも無理はない。一方でカスパルの方は自身が抱えた寂しさのようなものの正体も、それをどうにかする方法も、どちらもきちんと答えを得て納得ずくで話を終わらせたように見えた。二人の会話は致命的に噛み合っていないが、リンハルトは流石というべきか、カスパルの唐突な自己完結にも慣れたもののようだった。
「……もう。君こそ、あんまり危ないことに首を突っ込みすぎないでよ」
「おう!」
瞬時に気を取り直して見送りの言葉を投げたリンハルトを一度だけ振り返り、カスパルは元気よく返事をすると勢いよく閉まる扉の向こうに消えた。足音が遠ざかり、室内にはいつもの静けさが戻ってくる。その静けさが妙に落ち着かないのは、カスパルの賑やかな気配を名残惜しく思うからだろうか。
しばらく閉じた扉に目を向けていたリンハルトは、呆れたようなため息をついて冷めかけたお茶を口にした。そのため息はいつになく柔らかで、口元には親しみのある微笑が浮かんでいる。カスパルが訪ねてきたのはおよそ一年ぶりだから、久しく会えずにいた親友の元気な姿に、リンハルトは安心したんだろう。
懐かしい顔に会えたし、リンハルトの珍しい姿をたくさん見られて、自分としても満足だ。学生の頃からどこか大人びていたリンハルトだが、カスパルといる時の彼は年相応の少年だった。すっかり大人になった今も、二人が揃うとあの頃の空気がそのまま戻ってきたように感じる。懐かしい、ガルグ=マクの士官学校時代。今でも『先生』と慕ってくれる彼らが、剣を振るうことしか知らなかった自分を『教師』にしてくれた、大切な一年を思い出す。
「先生」
お茶を空にしたリンハルトが、物言いたげな視線を向けてくる。どうやら物思いに耽りながら見つめすぎてしまっていたらしい。
「教え子を見る目をしてますよ。今の僕は、貴方の何でしたっけ?」
「すまない。カスパルは変わらないなと思って」
「ですねえ。……ああでも、語彙は増えたかもしれませんね。昔から小っ恥ずかしいことを平気で言うやつでしたけど、言い方が子供っぽいから気にならなかったんですよ。最高とか凄いとか、口から出る言葉がとにかく単純で」
「そうだな。リンハルトがこんなふうになるくらいだ。少し見ない間にカスパルはずいぶん口が上手くなったってことだろう」
「こんなふうって」
「珍しく照れていただろう。今日は君の可愛い姿をたくさん見られたから、良かった」
二人の会話中に心の中で温めていた気持ちをそのまま吐露すると、リンハルトにじっとりした目で睨まれた。もちろんそれも照れ隠しだとわかっているから気にならない。
まだ辛うじて温かい茶器の残り少ない中身を、リンハルトと自分の器に等分して注ぐ。生姜の効いたこのお茶を彼も自分も好んで飲むわけではないが、在庫を切らしたことはない。傷まないうちにとよく飲むのも、なくなりそうになる度に買い足しているのもリンハルトだ。
「伴侶が目の前で口説かれてるんですから、少しは焦ってくださいよ」
「担いで連れていくと聞いた時は焦った。でもリンハルトもカスパルも、先生が悲しむことはしない子だと知っているから」
「……貴方の教え子であることに異存も不満もないですけど、今カスパルと一緒くたにそういう目で見られるのは、釈然としません」
ぷいっとそっぽを向いて唇を尖らせるリンハルトが、こういうことを言うのは少し意外だった。自由を愛して束縛を嫌う彼のことだから、悋気のような感情は鬱陶しく思いそうなものなのに。照れ隠しの冗談が多分に混じっているとは思うが、リンハルトは本気で嫌なことはたとえ冗談でも絶対に口にしない。リンハルトが厭うような感情すら自分だけは許されるのだと思うと、何となくくすぐったいような気分になる。
「カスパル相手に君は自分のものだと主張するのは、大人げがない気がする」
「あいつはそんなの気にしませんよ」
「……リンハルトは、自分にそう言われて嫌じゃないのか」
曖昧な許容を確かなものにしたくて尋ねると、リンハルトはぱちぱちと目を瞬かせ、それから綻ぶように笑った。
「貴方は僕のものなんですから、そりゃあ僕は貴方のものですよ」
何かが笑壺に入ったのだろう、リンハルトは笑い声を必死になって堪えている。一緒になってそこそこ経つが、彼の笑いのつぼだけはいまいちわからない。わからないが、幸せそうに笑うリンハルトを見ていると身体の内側からぽかぽかと温まるような気がするから、彼にはいつも笑っていて欲しいと思う。
「でも、そうですね。僕は先生のものですけど」
ぬるくなった茶を一息に流し込んでから、リンハルトは緩く目を伏せた。卓上に並ぶ綺麗に空になった食器と茶器を重ねて持ち、ゆっくりと立ち上がる。
「あいつの親友の座だけは、ちょっと渡してあげられないです」
食器を手に洗い場に向かいながら、こちらを振り向くその顔は悪戯っぽく笑っている。妬いてもいいですよ、なんて言われたが、許可されてもされなくてもカスパルに嫉妬はできないなと思う。幼い頃から育まれただろう二人の友情は、自分が決して持ち得ない、届かない星の輝きのようなものだ。その光は眩くとも、身を焦がすには遠すぎる。
「そういうものが一つくらいある方が健全だ」
卓上に一つ残された自分の茶を呷って空にして、それを手にリンハルトを追って洗い場に向かう。水を流して洗い物を始めたリンハルトを後ろから抱きしめて、その肩に額をうずめた。いつもこうする度にそっと触れたり撫でてくれたりする手が仕事中だからか、代わりとばかりに滑らかな頬が自分の側頭部に擦り寄せられる。
「ふふ、そうかもしれませんね。先生にもあります?」
「あるよ。ジェラルトの息子の座」
「それは……確かに、貰えないし妬けませんね」
控えめな笑い声交じりの穏やかな声が、耳朶をくすぐる。洗い物を終えたばかりの冷たい手が、髪を柔らかく撫でてくれる。
からかうようなその手を取って、左の薬指にはめられた指輪をそっとなぞる。ジェラルトが遺してくれた、大切な人への贈り物。これが彼の指にある幸福を、いつまでも手放さずにいようと思った。
