ガルグ=マク大修道院の地下にあるはぐれものの街、アビス。前節に起こった宝杯の儀を巡る一連の騒動もようやく落ち着き、街は薄暗く穏やかな平穏を取り戻しつつあった。
そのアビスの奥も奥、居住区の外れにある誰も知らないような一室がリンハルトの仮の自室となってから、一週間以上が経つ。地上にある学生寮の自室の半分もない狭さで、家具は寝台と四つ足に板を乗せただけの小さく簡素な机のみ。本と書付を広げればそれだけでいっぱいになってしまう机には椅子がなく、寝台を椅子代わりに使うしかない。
快適な環境とはいえないが、不自由はなかった。睡眠を何よりも尊ぶリンハルトにとって、寝床が合格なら合格だ。脚や床板の木材は年季が入っているものの長年大切に使われていたらしく、頑丈で虫食いなどの劣化もない。敷布は奥まった地下に似つかわしくないほどに白く清潔で、肌掛けも寮で使っているのと色違いの同じもの。枕はリンハルトが愛用している普段使いを持ち込んだので、使い心地は保証されている。
睡眠に必要なもの以外を寝台に持ち込みたくないリンハルトにとって、寝台を椅子代わりにするのは思うところがなくもない。だが我慢ならないというほどではないので、こういうものだと納得していた。
かくしてリンハルトは、貴族らしからぬ適応力でこの生活を満喫していた。この区画に寄り付く者は滅多におらず、常に静寂に包まれた部屋は読書や勉強には都合が良い。アビスの地下書庫にはリンハルトの興味を惹く本がこれでもかと溢れかえっており、読み物には困らない。好きな時に眠り、好きな時に本を読み、好きな時に勉強し、好きな時にまた眠る。級長が聞いたら眉間に皺を寄せそうな自堕落さを、咎める者さえいないのだ。
今日も長い昼寝から目覚めたリンハルトは、大きくあくびをしながら机の上の本を開いた。皺の寄った制服を気にすることもなく、栞の挟まれたページから中断していた読書を再開する。例の地下書庫にあった『紋章と呪術』と題されたこの本は、眉唾な記述も多いが発想は光るものがあり、紋章学における常識とは全く異なる新たな知見としてリンハルトの興味を惹いた。全体的に焚書にされかねない過激な内容だが、地下でこのように後ろ暗い読み物を楽しむというのは、なかなか洒落が効いていて悪くない。
寝起きで目に入れるには少々悪辣が過ぎる文章を何食わぬ顔で読み進めるリンハルトの手は、やたらと低い位置から響く荒々しいノックの音で一度止まった。
「どうぞ」
紙面から目を離さないまま、リンハルトはのんびりと応答する。間を置かず勢いよく開いた扉の向こうには、積まれた本の塔を両手に抱え、片足を蹴り上げるユーリスの姿が見えた。視界の隅で彼を捉えて、ようやくリンハルトは顔を上げる。
「起きてたか。ほらよ、お姫様。ご注文の品のお届けだ」
足で蹴り開けた扉をくぐり、ユーリスは抱えた大荷物を机の脇にどさどさと置いた。この部屋から出る気がないリンハルトにとって、司書と運び屋の仕事を請け負ってくれるユーリスは自身の手足も同然の存在になりつつある。
「ありがとう。……でも頼んだより多いよね、明らかに」
「お前、読むの早いからなあ。俺様直々に、今のお前にピッタリな本をいくつか追加しといてやったんだ。地上のお上品な書庫には絶対ないモンばっかだ、楽しめると思うぜ?」
「艶本か何か? それなら必要ないから持って帰ってよ」
「……からかいがいがねえな。何言っても顔色も表情も変わりゃしねえ」
浮かべたあくどい笑みをしかめっ面に変え、ユーリスはやれやれと首を振った。運んできたばかりの本の塔から一番上の一冊を手に取り、リンハルトに投げて寄越す。いつになく働いた反射神経で何とか受け取ったが、床に落ちていたら本は酷く傷んでしまったことだろう。信じられないとばかりに眉を顰めるリンハルトを、ユーリスは満足げな表情で見返して肩を竦めた。
「艶本ほど過激じゃねえが、王国の騎士道物語や帝国貴族物語ほどお綺麗でもない大衆本さ。平民の、特に女に人気らしいぜ。暢気なご令嬢がさらわれて監禁される話なんだが、今のお前みたいだと思ってな」
「監禁?」
「そうそう。身代金目当てに監禁されてんのに、お嬢さんは犯人のやたらと顔がいいならず者に惚れちまうんだ。暢気としか言いようがないだろ?」
「被害者が加害者に好意的な感情を向けるのは、心理的に同調することでそれ以上の被害を避ける防衛反応の一種だって説があるよ。加害者と強い絆を結んだ被害者の実例が少なくて、立証には至っていないようだけど……。やたらと顔がいいならず者本人なら、そういう例を多く見てたりするのかな」
「……そこで俺を躊躇なくガン見できるの、お前ってほんとに変なとこ肝が据わってるっつーか……」
沈痛な面持ちで額を押さえ、ユーリスはまた首を振った。誘拐だの監禁だの、そんな面倒な手は使わないから知るものかと潔白を主張したところで、リンハルトには一切響かない。それを正しく理解しているユーリスは無駄を嫌ってか、そこで話を切り上げた。
「ま、とにかく。監禁されてる奴が監禁されてる女の話を読むってのは面白いと思って持ってきたんだ。無理に読めとは言わねえが、せっかく持ってきたんだし今日のところは置いてくからな」
「あのさ、ユーリス」
「ん、なんだ?」
「僕って、監禁されてるの?」
リンハルトの言葉を聞くなり、ユーリスは大きな目をさらに見開いて、それからがっくりと肩を落とし、それはそれは盛大にため息をついた。このため息をついたのがハピなら、魔物を軽く三匹くらいは呼べそうだ。
「……本気で言ってんのか?」
信じがたいものを見る目でリンハルトを見つめ、ユーリスは後ろ頭を掻きながらぼやいた。恐らく心の中でひっそりと思ったことなのだろうが、すべてを口に出してしまっている。
「監禁っつーか正確には軟禁だが、どう考えたってそうだろ。ご丁寧に俺みたいな見張り役まで用意してんだぞ。むしろ何だと思ってたんだよ、お前」
「深く考えてなかったなあ。君が見張りってことは、僕を監禁してるのって……」
「そりゃ先生だろ。俺がお前を監禁して何のメリットがあんだよ」
「メリットとか言い出したら、先生にだってないと思うけど。それにあの先生が、生徒を監禁なんてするかな? 殺しの容疑がかかってるとかでもない限り、容認しないと思うんだよね」
「お前、俺の前でよくその例え出したな……? いやまあ、ごもっともだけどよ。俺だって先生から協力を頼まれた時は耳を疑ったさ」
「頼まれた?」
「ああ。生徒を一人、誰にも見つからないところに隠したい、ってな。それで俺がこの場所を用意したんだが……先生にはいつかの借りがあるとはいえ、胸糞悪い行為に使われるんじゃないかとヒヤヒヤしたぜ。ま、今のところは杞憂のようだがな」
すっかり気を取り直したらしいユーリスはにやりと笑うと、寝台に座るリンハルトに歩み寄り、その襟元に手を伸ばした。片手で手品のように釦が外され、一瞬で露わになった首筋を、すかさず冷たい指先がそっとなぞる。
「……ひでえことはされてないな?」
「心配すべきなのは僕じゃなくて、先生の方じゃない?」
「言われなくてもしてるっての。昨日いろんなトコの無事を確認済みだ」
「両方疑って、両方心配してるんだ。器用だねえ」
「俺様の縄張りで下卑た行為をされちゃ沽券に関わるんでね、これくらいは許してくれよ。ま、合意の上でってんなら、俺だって野暮なことは言わないぜ?」
悪戯っぽく片目を瞑るユーリスの手はリンハルトの首筋をなぞり、今は鎖骨を撫でている。くすぐったさにリンハルトが身動ぎすると、よれた襟元が大きく開き、片袖がずり落ちて白い肩が露わになった。何の感情も浮かんでいないユーリスの視線と、いつも通りに眠たげなリンハルトの視線が静かにかち合う。まるで時間が止まったかのように、神妙な静寂が部屋の中に広がった。
その時、唐突に部屋の扉が開いた。ギィ、と鈍い音が静寂を引き裂き、二人の視線と意識がお互いから扉の方へと向けられる。
ノックもなく開かれた扉の向こうに立っていたのはハピだった。彼女は気怠げな佇まいで、室内の二人を胡乱な目で見つめた。
「ユリー、ここにいたんだ。先生が来てるよ。いつもの。リンに面会」
「おう、連れてきてやってくれ」
「いいの? 取り込み中っぽいのに」
「ばーか、ただの身体検査だ」
「なーんだ。じゃ、連れてくるね」
豪快に扉を開け放したまま、ハピはあっさりと踵を返した。その姿はすぐに廊下の暗がりに消え、足音もたちまち遠ざかっていく。
その余韻も完全に消えた頃になってようやく、ユーリスはリンハルトに触れっぱなしの手を引っ込めた。寝台に座って一冊の本を膝に置くリンハルトの格好はやたらと扇情的になってしまっているが、甲斐甲斐しく服を整えてやるような義理もない。半分以上自分が仕掛けた冗談のせいだというのに棚に上げて、ユーリスは軽やかに一歩後ずさった。
「さて、お姫様へ訪いの時間だ。邪魔者はとっとと退散しますかね」
そう言って外套を翻して部屋を出ていくユーリスを、リンハルトは無言で見送る。珍しくたくさん喋って疲れたせいか、はだけた服を直す気力すらなかった。
「ああ、そうだ」
思い出したように呟いたユーリスは扉の前で立ち止まり、おもむろにリンハルトを振り返った。
「もし必要なら艶本くらいいくらでも用意してやるから言えよな。何ならいつかの礼もかねて、俺が相手をしてやってもいいぜ?」
「うーん、必要になる予定はないかな」
「……はあ。お前ほんっと、先生並みに動じねえな」
つまらなそうなため息をついたわりに、ユーリスの顔は上機嫌に笑っていた。ひらひらと軽やかに手を振るユーリスが、鈍い音を立てて閉まる扉の向こうに消える。足音は、リンハルトには聞こえなかった。
それから程なくして、誰かと話すハピの声が遠く微かに聞こえた。話し声が止むと、秒針のように規則正しい足音が徐々に近付いてくる。その足音は部屋の前でぴたりと止まり、控えめに扉を叩く音にすり変わった。
「どうぞ」
のんびりと応える声には、隠すつもりもない喜色が滲んだ。寝台に座り、はだけた服にも構わずに、リンハルトは扉が開くのを今か今かと待ち望む。
古びた扉が不思議と音もなく開く刹那の間すら、まるで焦らされているようだ。扉の隙間に翻る服の裾を目にするや否や立ち上がり、リンハルトは軽やかな足取りで待ち人の元へと駆け寄った。
「先生、こんばんは。待ってましたよ」
「こんばんは、リンハルト。……部屋に人を入れる前に、服をきちんと整えようか」
挨拶に続いてすかさず苦言が飛んできたが、彼に会えた喜びの前では気にもならない。
少し困った顔をしながらも襟元を直してくれる担任教師に、リンハルトは悪びれもせず微笑んだ。
◇
この軟禁生活が始まったのは今節――角弓の節のはじめである。フレンが行方不明になったという報せが入り、皆総出で彼女の捜索を始めた矢先のことだ。
見張り以外はすっかり寝静まった、ある日の深夜。夜更かしをして本を読み耽っていたリンハルトは、扉が叩かれる小さな音に気付いて顔を上げた。誰何の声を上げる間もなくどこか遠慮がちに鍵穴が回され、あっさりと解錠された扉の向こうに立っていたのは、いつもの服に身を包んだ担任教師だった。
セイロス教の総本山に併設されたこの士官学校では、教団に属する教師や騎士団の権限が大きい。教師は寮の親鍵を持っており、非常時には生徒の部屋に許可なく立ち入ることができる。この大修道院は軍事拠点でもあるため、生徒に限らず個々人の私的生活の優先順位は低いのだ。
とはいえ、それはあくまでも非常時の話である。普段は王国や帝国の学院と同程度には生徒の私的な生活や秘密が保障されており、教師が生徒本人に無断で部屋の鍵を開けたなど噂に聞いたこともない。
しかし実際、入学手続きの際に渡された約款でしか知らない現象が目の前で発生している。無断で鍵を開ける強硬手段に出たわりに一向に室内に入ろうとしない教師の顔を見つめて、リンハルトは首を傾げた。
「先生? こんな夜更けにどうしました?」
「リンハルト。すまないが、しばらく部屋を移ってほしい」
「あ、はい。わかりました」
こんな状況にありながら、二人のやりとりは短かった。ベレトは元々口数が少なく、リンハルトはベレトを全面的に信頼している。もちろんこんな夜更けに部屋を移らねばならない理由など疑問はいくらでも湧いて出たが、目の前のベレトから珍しく焦りのようなものを感じ取ったリンハルトはひとまず大人しく従うことを選択した。お気に入りの枕を持っていくのはあっさり許されたことだし、疑問は後で晴らせばいい。
そうして夜闇の静寂が満ちる大修道院を、二人で歩いた。枕を左手に抱き、空いた右腕をベレトに固く握られて、リンハルトは連れられるがまま久々にアビスへと足を踏み入れた。寝静まった蛹通りを忍び足で抜け、その先にある鉄柵の扉を越えて更に降る。階段横の脇道を進んだ先にはまた短い階段があり、細く伸びた通路の先には隠れ家のように小さな部屋があった。蛹通りの共同部屋より遥かに狭い、粗末な部屋だ。だがむき出しの壁はともかく床には清潔そうな絨毯が敷かれており、隅々まで綺麗に清掃されている。しばらくここにいてほしいと言うベレトは申し訳なさそうな顔をしていたが、周囲は人の気配もなく静かで、見た目よりは快適に過ごせそうな場所だった。
それからベレトの指示に従って、リンハルトはずっとこの部屋で過ごしている。地上に出ることとアビス内を不用意に歩き回ることは「危険だから」と禁じられたが、扉に鍵が掛けられているわけでもない。ベレトに信用されているのか詰めが甘いのか判断しかねるところだが、食事や湯浴みの用意だけでなく地下書庫の蔵書の運搬までもをユーリスが請け負ってくれるので、リンハルトとしては禁を破るほどの不満はなかった。おかげですっかりベルナデッタ顔負けの引きこもりと化している。
ベレトは週末を除いたほぼ毎日、夕刻過ぎの決まった時間にリンハルトを訪ねてくる。日によって滞在時間はまちまちだが、毎回「体調はどうか」「不自由はないか」と気遣う言葉は欠かさない。その日の授業内容をまとめた書付を持ってきて、授業に出られないリンハルトのために講義を行うことも度々ある。そんなベレトの様子に、普段と違うところは何もなかった。彼はあくまで教師として、生徒であるリンハルトと接してくれている。
その生徒を、ろくな説明もなく地下深くに閉じ込めていることに目を瞑れば、だが。
◇
甲斐甲斐しく襟元を整えてくれるべレトを、リンハルトはじっと観察していた。間近で見て気付いたが、どうやら少し疲れているようだ。フレンが見つかったという報せは聞いていないので、まだ捜索している最中なのだろう。教師として講義に訓練にと務めながら人探しまでしていては、疲労が抜けきらないのも無理はない。本人は涼しい顔をしているが自分に気取られるくらいだ、かなり無理をしているのかもしれないと思う。
「昨晩はしっかり眠れたか?」
「読んでた本が面白くて、気付いたら朝になってました。でも大丈夫です、さっきまで昼寝してたので」
「そうか」
いつも通り調子を尋ねられたリンハルトは、正直に夜更かしを告白した。生真面目な級長や他の学級の教師なら小言が飛んできそうなものだが、ベレトは静かに頷くだけだ。
元々ベレトは生徒に対し、多少の素行不良など注意もしないくらいに大らかな教育方針である。寝坊で度々講義をすっぽかしていた入学当初のリンハルトも、一度も厳しくされた記憶がない。級友の中には「訓練では容赦がないが、厳しいとは少し違う。かといって優しいというのもしっくり来ない」などと、なんとも曖昧な感想を述べる者もいるようだが、厳しくなければ優しいと思うリンハルトにとって、ベレトは優しい教師である。
その優しい教師が珍しく疲れた様子となれば、他人の機嫌や調子に頓着しないリンハルトもさすがに気にかかる。しかしリンハルトが「先生はどうですか」と問い掛けるより先に、ベレトは机に資料を広げて講義の準備を始めてしまった。声を掛けるタイミングを見失い、リンハルトは結局何も言わないまま、椅子代わりの寝台に腰を下ろす。その隣に同じように座ったベレトが、静かな声で今日の講義の概要を話し始めた。
寝台に二人並んで座り、小さな机を共に囲む。身じろぎする度にどうしても肩が触れ合ってしまうこの距離感を、最初ベレトはやんわりと拒んでいた。リンハルトが何度「先生も座ったらいいじゃないですか」と言っても首を横に振り、低い机に中途半端な中腰で顔を寄せるものだから、いつか腰を痛めそうで見ている方がはらはらしたものだ。
ベレトが拒む理由は明瞭で、「生徒と教師の距離としては近すぎる」「他人の寝台にむやみに触れるものじゃない」と、どちらも至極もっともだった。元傭兵という経歴のわりに、ベレトの倫理観は常識的だ。だが恐らくそれは教師となってから身に着けた、言ってしまえば付け焼刃の『知識』でしかないということを、数節もの間観察を続けたリンハルトは知っている。人の根本的な価値観を変えようと思うと難しいが、ただの知識であれば存外容易く上書きできるものだ。
リンハルトは椅子を用意しようというベレトの真っ当な提案を屁理屈で一蹴し、頑なに座ろうとしない彼に「僕が良いって言ってるんですから、良いんですよ。他に人目もないですし」と繰り返し言い含めた。近すぎる距離も、寝台に触れることも、「この部屋の主が許可しているなら構わない」という条件を刷り込んで上書きすることで、大して問題ではないと思わせたのだ。
それはリンハルトにとって、純水を用いた実験と同じだった。不純物を含まない無色透明の純水は、注がれたものの性質によって柔軟かつ鮮やかに色を変える。それでいて何が加えられようとも、水はどこまでも水である。危ういくらいの寛容さと、何が起ころうとぶれない本質の二点において、純水とベレトはよく似ている。一滴垂らしたくらいでは何もなかったかのように飲み込まれてしまう淡い色でも、繰り返し注げばうっすらと、だが確実に水を色づけることが出来るのだ。
この部屋に来てから始めたリンハルトの個人的な実験は、ベレトを自分と横並びに寝台に座らせるという結果をもたらした。上々の成果と言っていいだろう。それが一体何になるのかと問われると億劫だが、幸いそんなつまらないことを尋ねてくる無粋な輩はここにはいない。
すぐ横から滔々と響く解説の声を聞きながら、リンハルトはベレトの横顔をじっと見つめる。最初こそ視線が気になると言われたが、「先生の顔を見てると眠くならないし、講義に集中できるんですよ」の一言でベレトは何も言わなくなった。それ以来、リンハルトはやりたい放題でベレトの観察と受講を両立している。担任教師のあまりの容易さに心配になるが、自分にとっての都合の良さを優先したリンハルトがわざわざそれを口にすることはなかった。
「――だからこの場合は、こちらの計略が適している」
「それなら前回やった、森の中の進軍の場合はこっちですか」
「そうだ。よく覚えていたな」
とはいえ、リンハルトも講義自体は真面目に受けている。まったく興味のない計略やら用兵やらの講義でも、ベレトの声はすんなり耳に馴染むのだ。内容をきちんと理解して反応を示せば、こうして欠かさず褒めてくれるのも嬉しい。リンハルトが照れ隠しに「明日には忘れていそうですけどね」と言えば「書いておけば忘れない」と即座に返してくる生真面目さすらも、不思議と嫌ではなかった。
それはそれとして筆を持つのを面倒くさがるリンハルトに代わり、書付に補足を書き加えるベレトと肩が触れ合う。これも先の『実験』の成果と言えようか、この程度の接触であればベレトは一切気にしなくなった。紙面にさらさらと筆先を走らせながら、彼は「他に質問はあるか?」と、いかにも教師然としたお決まりの言葉を口にする。滑らかに動く手元と紙面を見つめる横顔を交互に見やり、リンハルトは手を挙げる代わりに小首を傾げた。
「先生はどうして僕を監禁してるんですか?」
リンハルトがそう尋ねた瞬間、文字を書き綴っていたベレトの手がぴたりと止まった。ぎぎ、と音がしそうなぎこちなさでリンハルトに目を向けたベレトの表情は、見たことがないほどに戸惑っている。もっともそれは、わかりにくいと言われる彼の感情をある程度読み取れるリンハルトだからこその感想だ。他人が見たら常と変わらぬ無表情か、少し驚いているように見えなくもない、程度だろう。
「……かん、きん?」
だが表情からはわからずとも、その声に含まれた戸惑いはきっと誰の耳にも明らかだ。普段の淡々とした響きとはかけ離れた、耳慣れない言葉を復唱する子供のように頼りない声。視線もリンハルトに向けられてはいるが、その焦点はおろおろと彷徨って定まらない。
何を言われているのかわからない――ベレトはこれ以上なく雄弁に、全身でそう言っていた。その反応を見て、リンハルトはすぐに一つの仮説に行き当たる。
ユーリスはああ言っていたが、ベレト本人は監禁しているつもりなど微塵もないのではないだろうか、と。
「ええと。さっきユーリスとそういう話になって……僕が先生に監禁、というか軟禁されてるって言われたので、そうなのかなって思ったんですけど。違いました?」
「違っ…………わ、ない」
明らかに強く否定する勢いだった第一声は、すぐに力を失ってベレト自身により撤回された。彼はリンハルトから逃げるように視線を逸らし、俯きがちにじっと何かを考え込んでいる。
「……そうだな、すまない。君を閉じ込めて、自由を奪っている。……酷いことを、しているな」
「先生、僕は別に責めてないですよ。今のところ別に不便はないですし」
「だからといって許されることじゃない」
ベレトは唐突に立ち上がると、一歩引いてリンハルトから距離を取った。恐らくそれは「危害を加える気はない」という意思表示でしかないのだろうが、リンハルトからしてみれば拒絶されているようで、あまり面白い気分ではない。
不満げに眉を寄せたリンハルトに、ベレトは何かよからぬ勘違いをしたらしい。再度真摯な声で謝罪を述べ、それから申し訳なさそうに首を振った。
「だが……もうしばらく、ここにいてほしい。すまない」
「それは別に構わないですけど。しばらくって、具体的にどのくらいです?」
「そうだな……遅くとも今節中には、寮に戻れるようにするつもりだ」
戻れるようにする、という言葉が引っ掛かる。リンハルトの処遇について、まるでベレトに完全な裁量がないかのような言い方だ。今の生活に大きな不満はないが、自分を地下に閉じ込めているのがベレトではなく他の何者かの意思であるならば、それはひどくつまらないし、今すぐにでも寮の自室に帰りたいとリンハルトは思った。待遇が変わったわけでもないのに、心持ち一つで不思議なものだ。
「あ、もう一つ質問していいですか。何か事情があって、僕をここに移したんですよね? その理由って教えてもらえます?」
「言えない。……今は言えないんだ」
「わかりました。じゃあ、言えるようになったら教えてください」
「ああ。約束する」
一連の問答で納得したリンハルトは頷いたが、ベレトの表情は曇ったままだ。リンハルトが数日かけて絆して得た距離は遠く開き、戻らないまま講義が終わる。低い声で紡がれる謝罪の一言が、講義後の恒例である他愛もない雑談に取って代わった。
重苦しい沈黙が、狭い部屋に充満している。深く考え込むように視線を床に落としたまま、いつもよりずっと早い時間に、ベレトは部屋を出て行った。
◇
ベレトの反応からして、本人に生徒を監禁している自覚はないのでは、というリンハルトの仮説はほぼ立証されたといっていいだろう。
だとすると、それを自覚させてしまったのは少々迂闊だったかもしれない。異色の経歴を持つ浮世離れしたあの教師は、妙に頑固で生真面目なところがある。自分の所業を『罪』として上に報告してもおかしくはないし、自責の念からリンハルトに合わせる顔がないなどと言って、ここに来なくなる可能性だってある。
そこまで考えて、リンハルトは頭を横に振って思い直した。前者はともかく、後者はきっとないだろう。彼の性格を考えれば、教え子への教導が遅れるデメリットを無視してまで自責に走るとは思えない。
だがこれはあくまでリンハルトの思考である。実際のベレトの胸のうちは聞かなければわからないし、予想にはリンハルト自身の希望も多分に含まれている。ベレトと二人きりで過ごす時間を楽しんでいるリンハルトとしては、彼の足が遠のく可能性についてはあまり考えたくないのだ。
しまったなあ、とらしくもない後悔をするリンハルトの予想にあっさり反して、ベレトは翌日もいつもの時間にやって来た。
少々気まずそうではあったが、彼はいつも通りにリンハルトの調子を伺い、今日の授業を要約した講義を行い、それが終わるとふたりで他愛もない雑談に興じた。その際こっそり食堂から持ってきたという甘味を差し出されたが、これはもしかしたら詫びのつもりだったのかもしれない。喜んでそれを口にするリンハルトを見つめるベレトの顔は、ほんの少しだけ柔らかく緩んでいる気がした。
ベレトはこの奇妙な監禁について黙したまま、そしてリンハルトも何も聞かないまま、ゆったりと日々が過ぎていった。暦の日付は節の半分をとうに越え、ベレトが宣言した期限はすぐそこに迫りつつある。最大まで多く見積もっても、残りの日数はわざわざ数えるほどもない。
せっかく夜更かしして本を読んでいるというのにどうにも集中できず、リンハルトは読みかけの本を机に放り出したまま寝台に寝転がった。
「……先生とこうしていられるのも、次で最後かもしれない、か」
頭ではずっと理解していたことだが、改めて言葉にするとずしりと胸に響くものがあった。
ここから解放されるのは喜ばしいことだ。リンハルトはこの生活に特段不満があるわけではないが、さすがに少しは地上の空気が恋しくなってきている。それより何より、問題は甲斐甲斐しい教師の方だ。この監禁生活に潰されるとしたら、自分よりもベレトが先だとリンハルトは思っている。
監禁、これも問題だ。この言葉をベレトに突き付けてしまったのはつくづく失敗だった。彼は以前と変わらない距離感でリンハルトに接してくれてはいるが、どこか一線を引かれているのが隣に座っているとよくわかる。具体的に言えば、あれから一切肩も手もぶつかることがないのだ。それがベレトの誠実さの表れだということは、言われなくてもわかっている。だが細心の注意を払って避けられているのだと思うと、なんだか面白くない気分になってしまう。
悶々と考え込んでいる内に時間は過ぎ、朝と共にやってきた睡魔に思考が飲まれる。答えらしい答えが出ないまま、リンハルトはゆっくりと眠りに落ちていった。
◇
最後になるかもしれない一日も、いつもと変わりなく過ぎていく。いつもの時間にベレトがやってきて、いつも通りに講義が始まる。最後かもしれないという意識がそうさせるのか、いつになく真面目に書付を起こすリンハルトに、ベレトは気付いているだろうか。
スムーズに終わった講義の後は恒例の雑談の時間だが、今日口火を切ったのはベレトの方だった。
「前から思っていたんだが、そういう本も読むんだな」
講義の資料を片付けながら、ベレトはそう言って机の脇に積まれた本に目をやった。ユーリスがわざわざ差し入れてくれた、例の監禁が題材の物語だ。返却するタイミングを逸してしまい、他の本と一緒に積み上げられっぱなしになっている。
「ああ、これですか」
リンハルトは一番上に積んであった一巻を手に取り、ぱらぱらと捲った。一応目は通したものの斜め読みで内容をほとんど覚えていないが、やたらと美麗な挿絵は印象に残っている。ユーリスが婦女子に特に人気の本だと言っていたが、内容もさることながら挿絵の力が大きいのだろう。
「リンハルトは、あまりそういった物語を読む印象がなかった」
「まあ、滅多に読まないですよ。実用書の方が好きです」
とりとめもない会話をしながら、リンハルトは挿絵のページを開いて差し出した。素直に紙面を覗き込んだベレトが、面白いくらい露骨に硬直する。無理もないだろう、挿絵に描かれているのは、牢獄よりはましといった粗末な部屋で鎖に繋がれたひ弱な女性だ。そこから連想出来るものに後ろめたさを抱えているベレトにとって、何かしらの衝撃があることは想像に容易い。
「……これ、は」
「ユーリスに勧められたんですよ。僕の現況に似てるって言われたんですけど、この部屋はこんなに酷くないし、僕は男ですし、全然違うと思いません?」
「……この子は教師に監禁されてるのか?」
「いえ、監禁してるのはならず者の男ですよ。女性は身代金目当てでさらわれた令嬢だったかな。こんな内容ですけど恋愛物語なので、男はならず者だけど顔は良いし、この女性はそんなならず者を好きになります」
「全く面白そうに聞こえないが、こんなに続くほど人気なのか……?」
ベレトが高く積まれた本の塔を上から下まで見ながら言う。背表紙が似ている本が混ざっているだけで全部が全部この物語の関連書籍というわけではないのだが、否定するのも面倒でリンハルトは「そうらしいですよ」と適当に頷いた。
「……無体を強いておきながら相手から好意まで貰う……? さすがに都合が良すぎる夢物語では」
「うーん、どうですかね。現実にも悪い男に惹かれる女性は珍しくありませんよ。それに性別問わず強い雄に惹かれるのは、生き物の本能としてもおかしくありません」
「そういうものだろうか」
「まあ確かに、現実の犯罪とは違いますよ。男の方は乱暴するでもなし、女性だって鎖に繋がれているってだけで、最低限の衣食住が保障されています。だから恋愛事にうつつを抜かすくらいには余裕があるんでしょう。実態は監禁というより、趣味の悪い拘束付きの同居です」
リンハルトはそこで言葉を切って、ベレトの様子を窺った。彼の目は相変わらず、開かれた本の挿絵を見つめている。わずかに寄せられた眉根から強い自責の念を嗅ぎ取って、リンハルトはわざと軽い口調で先を続けた。
「この話が夢物語なら、僕が今こうしているのは御伽噺ですね。学生の身分にありながら、悠々自適の隠居生活。将来はこのくらいのんびり過ごしたいものですよ。あ、もしかして怠惰な僕に将来の目標でも見付けさせるために、こうして付き合ってくれてたりします? いやあ、先生は優し――」
「リンハルト」
自分の名前を呼ぶ静かで柔らかな声が、言葉尻に重なる。これまでベレトが人の言葉を遮ることなどあっただろうか。少なくともリンハルトが知る限りでは一度もない。
軽く目を瞠るリンハルトをまっすぐに見つめ、ベレトは殊更にゆっくりと、幼子に言い聞かせるかのように語りかける。
「君は優しい。だから先生を庇おうとしてくれているのかもしれないが、自分が君に強いていることは、非難されて然るべきだ」
「……僕、構わないって言いましたよね。合意の上じゃないですか」
「この状況で教師に逆らうことが出来る生徒は多くない。だから君のそれは言わされているだけだと判断される。仮に事実として合意があったのだとしても、君の自由を奪う言い訳にはならない」
「自由を奪われてるのは先生の方なのに?」
そう尋ねながら、リンハルトの手は無意識にベレトの服を掴んでいた。膝の上で固く組まれた手に直接触れなかっただけ、理性は働いていると判断する。まるで告解でもするかのように滔々と言葉を紡いでいたベレトは、突然身を乗り出してきたリンハルトを戸惑いの目で見返した。
「……何の話だ?」
リンハルトが投げた言葉の意味をまるで理解していないことが、よくわかる一言だった。むしろ聞かずともわかっている、この教師はそういう人だ。どんな状況でも自分が被害者だとは考えない、常に加害する側であると当たり前に信じて疑わない。見方によっては強者の傲慢ともとれるが、それを実現してしまう圧倒的な力量をベレトは確かに持っている。だからだろうか、彼は自身のあらゆる傷にあまりに無頓着だ。彼の下で白魔法を学んでいるリンハルトは、時々見ていて辛くなる。いくら魔力を込めたって、癒せないものがあると思い知らされるからだ。今がまさにそうであるように。
リンハルトは身を引こうとするベレトの頬を無理やり両手で包み込み、親指でその目元をそっとなぞった。ろくに寝ていないのだろう、色濃い隈がそこにある。触れて分かったが、肌も少し乾燥してしまっているようだ。
多岐の分野に渡る講義を受け持ち、まめに生徒と食事を囲み、時には課外授業も兼ねた戦闘に赴くことさえあるベレトに、普段から自由時間はほとんどない。それなのに毎日足繁くリンハルトの元に通うなど、相当な無理をしなければ出来ない芸当だ。そんなことは、この生活が始まって2日目の時点で気付いていた。だが人目も憚らず先生を独占出来る自分の時間と、ベレトが心身を休めるための時間を天秤にかけて、リンハルトは前者を取ったのだ。酷いのはどちらかといえば自分の方だという確固たる自信が、リンハルトにはある。
「ここに来るまでの時間も、一緒にいてくれる時間も、書付をまとめる時間だって、全部僕一人のためですよね。この時間を捻出するために、先生は毎日自分の時間を犠牲にしている。だけど僕は好きな時間に好きなだけ寝て、好きな本を読んで、血が飛び交う実戦にも駆り出されずに済んでいるんです。ねえ先生、本当に自由がないのはどっちだと思います?」
「リンハルト、それは……」
「先生。僕はここに来てからずっと、貴方を鎖で繋いで監禁しているような気分ですよ。ここでの貴方はみんなの先生じゃなくて、僕だけの先生ですからね」
ユーリスが持ってきた俗っぽい大衆本の話題に乗ったのも、その挿絵を見せたのも、生徒を監禁しているという見当違いな後ろめたさを持つベレトを追い詰めたかったからではない。ベレトはどういう反応をするのかと良くない好奇心が疼いたのも事実だが、大半は彼をここに縛り付けていることに対する、リンハルトなりの懺悔だった。
この本を持ってきたユーリスは、リンハルトを悪戯っぽく「お姫様」と呼んだ。彼はこの物語に出てくる囚われの女性とリンハルトを重ねている。だがリンハルト本人からしてみれば、女性を捕らえているならず者の心情の方がわかりやすいし、自分に近しいと思うのだ。
金のためにさらった令嬢を狭い部屋に鎖で繋ぎ、二人きりで過ごす内に金よりも貴い彼女の内面に少しずつ惹かれていくならず者。莫大な身代金という本来の目的を忘れてしまう愚かさは似ていないと思うが、ベレトの紋章に惹かれ、今は彼自身に強い興味を持つ自分は、やはり令嬢よりはならず者に近いだろうとリンハルトは自認している。
「この話、監禁なんて悪趣味だって思ったんだけどな。僕って趣味が悪いのかも。まあそれは、先生を見初めた趣味の良さで相殺ってことにしましょうか」
頭の中に浮かんだ思考が、そのまま独り言として口から溢れる。
戸惑いに揺れるベレトの瞳を至近距離からじっと覗き込んだまま、リンハルトはその肩に手を置いてそっと押した。腕力に乏しいリンハルトのわずかな力で、戦場で鬼神のような強さを誇る彼の身体があっさりと後ろに倒れていく。椅子代わりにしていた寝台の真白い敷布がひずみ、その上にベレトの柔らかな髪の毛が広がった。
事を起こしたリンハルトの方が不安になるくらいに、ベレトは抵抗しなかった。微かに震える瞳が「駄目だ」と雄弁に語るのみで、緩く開かれた口からは吐息すらも聞こえない。抵抗されて「わかりました、またいつか」と軽口を返すつもりだったリンハルトも、代わりの言葉を見つけられずに口を噤んだっきりだ。
細腕二本の簡素な檻など一瞬で薙ぎ払えるベレトの手は、どちらも力なく敷布の上に投げ出されている。ふと目についた左手にリンハルトが自分の右手を重ねると、無意識なのか反射なのか、緩く握り返された。
それが合図だった。ベレトにそんなつもりはなくても、リンハルトはそれを許容で、肯定で、受諾であると受け取った。目を伏せて、無防備に晒された耳元に唇を寄せる。彼の物言いたげな視線から逃れてしまえば、抵抗も制止も皆無だった。のしかかる二人分の体重に寝台が軋み、隅にあった肌掛けは音もなく滑り落ちて床に広がる。
「先生、ろくに眠れてないでしょう? このまま僕と、二人で気持ちよく寝ましょうよ」
丸い耳元に吹き込む、夢みるようなリンハルトの囁きに、ベレトからの返事はない。ただ、重なったままの手はいつの間にか、緩く指先が絡まっていた。
どちらからともなく、まるで互いに縋るように。
翌日、いつもの服をしっかりと着込んだベレトが、いつものように規則的な足音を響かせてリンハルトに会いに来た。ただし時間は正午前と、いつもよりずいぶん早い。
寝間着を気崩して枕を抱え、思うさま惰眠を貪っていたリンハルトは、寝ぼけ眼をこすりながら起き上がると寝台の上でベレトを迎えた。あまりに無防備な生徒の姿にもベレトは一切動じることはなく、いつかのような小言も飛んでこない。
「フレンの行方に目処がついた。二刻の後、敵陣に侵入し救出。これが今節の課題となる。……出られるか、リンハルト」
「出ろと言われたら出ますよ……ふわあ。……ものすごく眠いんで、役に立つかは保証しませんけど」
「安心してくれ。必ず役に立ってもらう」
力強く断言するベレトの目線は鋭く、リンハルトが異論を挟む隙すらなかった。早くも顔つきや言葉が教師ではなく、戦場で采配をふるう指揮官のそれだ。ひりついた戦場の空気をまとわせたベレトは、まっすぐにリンハルトを見つめて先を続けた。
「では着替えて私物をまとめておいてくれ。後で自室に届けるよう、書庫の本の返却と合わせてユーリスに頼んである。ここには戻らないから、忘れ物をしないように」
「あ、この生活も終わりなんですね。残念だなあ」
「やっと解放されるんだ、朗報だろう。……上で待っているから、早めに支度をしてきてくれ」
「先生、待ってください」
言うなり踵を返してしまったベレトの背に慌てて声を掛ける。立ち上がって伸ばした手こそ届かなかったが、ベレトは足を止めてリンハルトを振り返った。切れ長の目が「どうした?」と無言で尋ねてくる。
「すぐ着替えるので、何か話でもしてくれませんか。⼀⼈だと朝寝しちゃいそうでして」
「朝寝? ……わかった、部屋のすぐ外にいよう」
「ここでいいです。声が聞こえにくくなりますし、別に見られて困るわけでもないですし」
「……見る方は困るんだ。後ろを向いてるから、早くしてくれ」
言葉とは裏腹にまったく困っていない様子のベレトが、その場でリンハルトに背を向ける。はあい、と生返事をして、リンハルトは特に急ぐでもなく寝巻きのボタンを外しはじめた。貴族御用達の上質な生地で仕立てられた寝巻が脱ぎ捨てられ、しゃらりと滑らかな音を立てて床に落ちる。
「……フレンは彼女の血を狙う何者かに拐かされた可能性が高い」
静かな室内に響く衣擦れの音を、唐突に話し出したベレトの声が上書きする。話をしてくれとリンハルトが頼んだので、律儀に応えてくれているようだ。背筋がまっすぐ伸びた姿勢の良い背中を見つめて、リンハルトは着替えながらベレトの声に耳を傾ける。
「これは彼女が行方不明になった直後から、教団の上層部が可能性として懸念していたことだ。君は知っているだろうが、彼女はセスリーンの紋章を持っている。なら、同じくセスリーンの紋章を持つ君も狙われる可能性があると考えた。前節の宝杯の儀の件もある。……守らなくては、と思った。だから独断で、君をここに連れてきた」
ベレトは淡々と、そう語った。以前リンハルトをここに連れてきた理由について頑なに口を閉ざしたのは、ごく一部にしか知られていないフレンの特殊な血について語ることを避けたからだろう。持ち前の好奇心でごく一部に入ってしまっているリンハルトに対しては不要な沈黙ではないかと思うが、その時はまだ確信もなく、不確定な情報で混乱が広がるのを避けたといったところだろうか。
他にも様々な疑問が氷解して、リンハルトはすっきりとした気分だった。ベレトに監禁している意識がなかったのも納得だ。これは監禁ではなく、保護だったのだから。ならばユーリスの誤解も解いておくべきではと思ったが、彼はわかっていながら面白がってわざとあのような言い方をした可能性が否めない。それに本当に誤解しているのだとしても、大した実害はないだろう。そう結論づけたところで、リンハルトはその思考を打ち切った。
――守らなくては、と思った。
クリアになったリンハルトの脳裏に、先ほど聞いたばかりの言葉が反響する。教師として、大人としての義務感からの庇護なのは理解している。それでもベレトが剣を手にすることなく自分を守ろうとしてくれたという事実は、リンハルトの胸をじんわりと熱くした。なんだか無性に照れくさい気持ちになり、ベレトの声だけを聞いていたいのに思わず口を挟んでしまう。
「先生、気持ちはとても有難いんですが、セスリーンの大紋章ならともかく小紋章はそこまで珍しくもないですよ」
「自分が知っているのは、君だけだ」
短く明瞭なベレトの返答は、単なる事実を告げているだけだ。それなのにどうにも特別な響きに聞こえてしまって、リンハルトは自分の耳の都合の良さに笑い出したくなる。
制服に袖を通しながら、この時間が終わらなければいいのにと思った。フレンのことがなければ、わざとゆっくり着替えていただろう。
「学級のみんなには、どう説明してたんです?」
「癒し手の少ない青獅子の学級の課題協力をしていると誤魔化していた。だが、フレンのようにさらわれたのではと噂され始めて……今朝、本当の事を話した。狙われる可能性が高かったから、安全な場所で匿っていると」
「監禁した、とは言わなかったんですね」
「……昨晩、約束したからな。ここでのことは二人だけの秘密、なんだろう?」
それはリンハルトが半ば無理やり取り付けた約束だった。いつか危惧した通り、生真面目なベレトは事が片付いたら全てを正直に明かし、いかなる責も咎も負うと言って聞かなかったのだ。そんなつまらないことで担任教師を失いたくなかったリンハルトは、手段を選ばず自分自身を人質にとった。「じゃあ僕も『先生を寝台で押し倒しました』って、正直に言いますね」と。
教え子が自分のせいで『教師に無体を働いた』という不名誉な烙印を押されて追放されるなど、ベレトにとっては耐え難いことであるはずだ。寡黙で無表情でわかりにくいが、ベレトが教え子を心から慈しんでくれていることは、黒鷲の学級の生徒なら誰でも知っている。それなのにこの教師ときたら、生徒たちがどれほど自分を慕っているか、あまりわかっていないようなのだ。この件でベレトが処分され黒鷲の学級の担任を辞すことになろうものなら、リンハルトは学友たちから非難轟々に責められかねない。ベレトをいかに黙らせるかというのは、あらゆる意味でリンハルトの死活問題だった。想定される面倒を避けるためにも、自分の好奇心や気持ちのためにも。
だから「僕のためにも秘密にしてください」などと言って不器用に糖衣で包んだが、リンハルトが取った手段は完全に自分を盾にした脅迫だ。とても褒められたものではない。それでも、ベレトは折れてくれた。拙い脅迫に屈したわけではなく、先生にいなくなって欲しくない生徒の気持ちを汲んでくれたのだ。それがベレトの声音から伝わってきて、リンハルトの胸に広がった熱が高まる。
えらいですね、と幼子にするように頭を撫でたい気分だった。とんでもなく複雑な顔をされそうだが、着替え中でなかったら実際にしていたかもしれない。
良かったです、とこぼしたリンハルトに、ベレトは良くない、と首を振った。少しだけ笑い声が混ざったような、初めて聞く声だ。背を向けたままのベレトがどんな表情をしているか、リンハルトにはわからない。それをひどく惜しいと思った。
「……カスパルに凄い剣幕で怒られた。リンハルトは自分の身くらい自分で守れる。そのための術を教えたのは先生なのに、どうしてその先生がリンハルトを信じてやらないんだ、と。返す言葉もないな」
「いやあ……カスパルは大袈裟なんですよ。僕、実際弱いじゃないですか。自分の身を守れるかも怪しいですよ」
「うちの学級の生徒が弱いわけないだろう」
「うーん、その信頼はちょっと重たいですね」
幼馴染みと担任から寄せられる理屈のない信頼が重いのは、嘘偽らざるリンハルトの本音である。だが、決して嫌ではない。返す軽口に笑い声さえ滲ませて、リンハルトは最後の釦を留め終わると「先生」と一言ベレトを呼んだ。
振り返ったベレトの目が、リンハルトの頭の先から足元までを一瞥し、それから右手に向けられる。握手でも求めるかのように差し出されたリンハルトの右手と顔とを交互に見やり、ベレトは不思議そうに首を傾げた。鈍いなあ、と自分の言葉足らずを棚に上げた文句を心の中で呟いて、リンハルトはまっすぐにベレトを見つめる。
「手を引いて連れてってください」
「……自力で歩けないほど眠いのか?」
「半分はそうですね。もう半分は、先生がここに連れてきてくれたので、先生に連れ出してもらいたくて」
らしくもなく感傷的な要望だとは思ったが、紛れもない本心なので言葉はすんなりと口を突いて出た。なんでもないような顔で手を差し出すリンハルトとは正反対に、ベレトは明らかに困惑している。
そのままずいぶんと長い間、ベレトはリンハルトの手を見つめていた。気が長いリンハルトは痺れを切らすことこそなかったが、物理的な限界がきていた。上げっぱなしの腕が辛いのだ。肩やら腕やらに力を込めるのも面倒になってきた頃になってようやく、ベレトはいかにも覚悟を決めたといった面持ちで、その手を取った。
ベレトの左手が、リンハルトの手首を掴む。連行だなあ、とリンハルトが心の中で笑うと同時に、ベレトは身を翻した。するりと手首を滑った手のひらがリンハルトの手のひらに触れて重なり、指がそっと絡めとられる。昨晩、寝台の上で感じた熱と同じ温度が、絡まった指の間を静かに伝った。
「……あの、先生」
「階段の手前まで。……そこまでなら、人目もない」
珍しく小さな声で言い捨てると、ベレトはリンハルトの手を引いて歩きだした。勢いよく踏み出されたのは一歩目だけで、すぐに歩幅が小さくなる。その足取りは階段までの短い道のりをはっきりと惜しんでいて、寡黙な教師の胸の内を何よりも雄弁に語っていた。
手を引かれ、前を行く背中を見つめて、リンハルトは小さく声を上げて笑う。
「……しあわせだなあ」
思わずこぼれ落ちたリンハルトの感嘆はベレトの耳にも届いただろうが、彼は何も言わなかった。ただ繋いだ手が強く、痛いくらいに握られる。
絡まる指先から伝わる熱を相槌の代わりに受け取って、同じ強さで握り返す。数秒後には手離さなければならないこの熱を、永遠に留めておけたら良かったのに。
そんなくだらなくなくないような、益体もない思考でリンハルトの頭はいっぱいだった。普段なら煩わしいだけの雑念が無性に愛おしく、少しでも近くにいたい気持ちが、筋金入りの運動嫌いの足を軽くする。
数歩先を行くベレトに小走りで追いついて、そのすぐ横に並び、歩く。薄暗い階段を前に短い蜜月の散歩は終わり、二人の指先はもう離ればなれになっている。ここから先は戦場への歩みだ。浮ついた気持ちではいられない。
後ろを一度だけ振り返り、恐らく二度と見ることはない小さな扉を目に焼き付ける。
あの扉の向こうで、リンハルトは一節を過ごした。薄暗い地下に確かにあった、木漏れ日のように柔らかな日々。それを一生、忘れることはないだろう。
