アスク王国に召喚された時点で、チェイニーには決して重ならない二つの記憶があった。一つは生まれてから今までの連続した生の記憶、もう一つは断片的で薄ぼんやりとしたどこか他人事のような記憶だ。
 後者で特に強く頭に残っているのは、各々思い思いの仮装をして配られる菓子類を貰うために練り歩く、収穫祭なる珍妙な祭りのことだった。チェイニー自身はそんな祭りに参加した覚えはないのだが、道化師の装いをした自分をいやに鮮明に思い出せる。これは記憶というよりは知識といった方が正確だった。異なる世界線の自分の記憶を、知識として持っているということなのだろう。実際記憶にある通りの道化師の装いをした自分を見掛けて、チェイニーの中でその推測は確信に変わった。
 英雄たちをこの世界に喚び出した召喚師を名乗る人物は、あっさりと「もう一人の自分」を受け入れたチェイニーに少しばかり驚いたような顔をした。
 曰く、最初はあるはずのない記憶や自身と同じ存在に混乱する者も多い。しかし一部の竜族は異様に理解が早く、良くも悪くも無感動に順応するのだという。
 竜に化身する術を持たなくとも、やはり君の本質は竜なんだね――召喚士はそう言って、チェイニーを見つめる目を細めた。

 それから「ちょうど祭りがあるから参加するかい」と問われ、収穫祭のような和やかな祭りと早合点したチェイニーは二つ返事で了承し、すぐに後悔することになった。参加したハタリの祭りは武を競うたいそう物騒なものであり、争い事を好まないチェイニーにはまるで合致しない催しだったのだ。とはいえ今更嫌だとは言い出せず、せめてもの抵抗として得物は杖を選んだ。たとえ祭事であったとしても争いには加担しないと言外に主張するためだったが、何せ物騒な催しである。続出する怪我人の治療に追われ、気付けばハタリの女王陛下率いるチームで最前線に立たされる羽目になってしまった。
 終わった今でこそ良い思い出として振り返ることが出来るが、もう一度参加したいかというと二度と御免だ。だが初めて己の手で握った杖は思いの外馴染んだので、これと出会えただけでも参加した甲斐はあったというものだろう。
 以来、チェイニーはアスクにある数多の英雄の一人として、要請があれば負傷した者の治療に当たっている。

 元々世界をふらふらと渡り歩く癖があるチェイニーは、環境の変化や異なる文化への適応力が高い。異世界であるアスクでもその適応力が遺憾無く発揮されるかと思いきや、正直なところチェイニーにとってこの国は少々居心地が悪かった。国というよりは人だろうか。顔を合わせたくない人物が多過ぎるのだ。
 その筆頭が万年収穫祭気分なもう一人の自分である。元々の悪戯好きの性格に収穫祭の大義名分など与えてしまっては、手の施しようがなくなるのは自明の理だ。自分の厄介さは自分が一番よく知っているのだから、極力近寄りたくはない。
 収穫祭が終わっても道化た格好のまま、変身能力を駆使して日々悪戯に励むもう一人のチェイニーは、この世界にすっかり馴染んでいるようだった。昔からの知り合いもこの世界で初顔合わせの面々も分け隔てなく付き合うようで、妙に顔が広く名が知られている。だがそれこそ本来のチェイニーの振る舞いそのもので、どちらかといえば平常でないのは自分だという自覚がある。もう一人の自分に言われるまでもなく、らしくない。
 だからといって無理をしたり我慢をしたりはもっと性に合わないため、チェイニーは自分の気が赴くまま、殆どの時間を変身して過ごしている。素顔に戻るのは自室か、駆り出された戦場くらいだ。
 深く関わることなく遠巻きに人々を眺めていると、遥か昔に人と竜の争いを傍観していた記憶が蘇る。らしくないと自分でも思ったが、案外そうでもないのかもしれない。賑やかな人間の営みを好ましく思うのも、終わらない争いを続ける人間を疎ましく思うのも、どちらもチェイニーの本心だ。

 そうしてそれなりの月日が流れた。もう一人の自分にだる絡みされることも、人間関係に軋轢が生じることもなく、チェイニーにとっては平和な日々だったといえよう。アスク王国は絶え間なく厄介事に巻き込まれているが、それはそれだ。冷たいようだが、あらゆる戦争に興味がないチェイニーには関係がなかった。

 そうして比較的長く続いたチェイニーの安寧の日々だったが、終わりは唐突に訪れた。なんてことのない、平凡な日の朝のことだ。
 まだ宵の気配が根強い早朝、出歩く人など殆どいないのを良いことに、珍しくチェイニーは素顔のまま自室を出た。ちょうど開花を迎える中庭の蓮がふと気になり、様子を見ようと思ったのだ。
 鼻歌交じりに中庭に向かうチェイニーは、廊下の先の暗がりに佇む人影に気付いて足を止めた。反射的に気配を殺したが、遅かったか相手が悪かったか、人影はチェイニーを振り返った。窓から差し込む残月の淡い光に照らされて、人影の纏う霊気が青くきらきらと輝く。それと同じ色をした瞳がチェイニーを捉え、軽く瞠られたのが暗がりでもはっきり見えた。

「⋯⋯チェイニー?」

 聞き慣れた、それなのに随分と懐かしくも感じる声に名を呼ばれ、チェイニーはろくな返事も出来ずに硬直する。
 そこにいたのはマルスだった。チェイニーがこの世界で人間を避け続けてきたのは、偏に彼と顔を合わせたくなかったからだというのに運がない。げっ、と声が出なかったのが奇跡だった。
 声には出さずとも、顔には思いっきり出てしまっている。だがマルスは意に介した様子もなく、ふわりと浮かぶような足取りでチェイニーの方へと近付いてきた。その動きに違和感を覚え、チェイニーはマルスの足元に目をやった。浮かぶような、ではない。比喩ではなく彼の足は地に付いておらず、よくよく見ればその身体は透けんばかりに色が淡い。

 例によってこの世界には様々なマルスが召喚されている。チェイニーがよく知るアリティア王子だけでなく、花婿姿やら幼少期やら、片手の指では到底足りない数のマルスがこの世界には存在するが、目の前にいるマルスは明らかに他とは一線を画していた。果たして本当にマルスなのか、それさえも疑わしい。
 そのことに気づいてしまえば、会いたくなかったというちっぽけな感情は吹き飛んだ。代わりに脳裏を埋め尽くす思考の波と疑問符に押されるようにして、チェイニーは目の前のマルスに問い掛ける。

「⋯⋯お前、マルス⋯⋯だよな?」
「そうだよ。君の知るマルスとは、違うものかもしれないけれど」

 その言葉通り、目の前の彼はチェイニーの知るマルスとは語り口からして違っていた。マルスは元々比較的穏やかな話し方をする人間で、それは彼も同じだった。だがその声には外見に不釣り合いな老練さが含まれている。それはチェイニーの知るマルスが持ち得ない特徴だ。人間にはわからないかもしれない些細な違いだが、チェイニーにとっては痛烈な違和感だった。
 直感的に、人間の声ではないと理解してしまう。数百年、数千年を生きる人ならざるもの特有のゆらぎが、彼の声には確かにあった。

「⋯⋯お前⋯⋯何年生きてんだ?」
「やっぱり君にはわかるんだね。ええと、何年になるかな⋯⋯。千を超えた頃に、数えるのをやめてしまったから」
「⋯⋯は? なんで、そんなことに」
「それも昔のことだ、忘れたよ。それより古い記憶は――君のことは、ちゃんと覚えているけどね」

 軽やかに笑うマルスに対して、チェイニーの心中は穏やかではなかった。突沸した激情に名前をつける暇もなく、反射的にマルスの胸ぐらを引っ掴む。非力な手では彼の身体は微動だにせず、突然の武力行使を受けて尚、表情すら変わらない。至近距離から凪いだ穏やかさでまっすぐに見つめられて、掴みかかった手が震えると同時に泣きたくなった。

「俺は、お前を、そんな風にするために、力を貸したわけじゃない⋯⋯!」
「うん。ごめんね。叱ってくれて、ありがとう」

 チェイニーが悲痛に叫んでも、マルスは小さく微笑むだけだった。泰然としたその様がチェイニーの中でナーガと重なり、言葉を失った口の代わりに心臓が張り裂けんばかりの悲鳴を上げる。

 最悪だった。これまで遠巻きに眺めてきたあらゆるマルスの可能性の中で、チェイニーにとっての最悪を煮詰めたような存在が、目の前にいる彼だった。だがその最悪は十分有り得るものだとわかっていたから、関わらないようにしていたのに。どうしてよりによって、出会ってしまったのが彼なのだろう。

 ガトーの命に従って、光のオーブを求めるマルス一行の道案内をした遠い記憶が蘇る。
 人の身ではとても征けないあの道を、彼らが自力で踏破することは絶対に不可能だった。地の利がある敵によって袋小路に追い詰められ、狂った火竜と火の部族の夕飯になるのが関の山だ。
 そうなって欲しくないと思ってしまったから、ガトーなどに従ったのだ。彼らを――マルスを人のまま人の世に返すことこそが、チェイニーの真なる目的だった。神の領域に長く留まれば、矮小な人間は瞬く間に変質してしまう。そうならないために、かつてチェイニーはマルスに力を貸したのだ。見ていられないくらいに危なっかしい、ひ弱な人間の有り様に、心を惹かれてしまったから。

 食いしばった唇から滲む血の味で、チェイニーは幾ばくかの冷静さを取り戻した。
 過ぎたことを言っても仕方がない。あの時チェイニーはマルスに人であって欲しいと願ったが、その後どんな選択をしてどう生きるかはマルスの自由だ。チェイニーが決めることではないし、関与することでもない。それに、自分が案内した神の領域での影響と決まったわけでもない。

 ごめん、と絞り出した小さな声で謝罪して手を離す。俯いているチェイニーにはマルスの表情は見えないが、目の前の気配は柔らかく、どこか嬉しげに笑っているようにすら感じられた。

 チェイニーが覚えているままのマルスなら、こんなふうに笑ったりはしなかっただろうと思う。困ったように眉を下げて、ごめんねと謝る小さな声が想像出来る。出会った頃の幼さの残る顔でも、ついぞ見ることはなかった皺だらけの老年の顔でも、同じ表情を浮かべている。だが今目の前にいるマルスはそうではない。そのことが、チェイニーにどうしようもなく非情な現実を突きつけてくる。
 だけどきっと、こいつが悪いわけじゃない。そう自分に言い聞かせながら、チェイニーは込み上げる激情を飲み下す。音を立てずに深呼吸をしてから、無理やり上げた口角は歪に震えたが、気付かれたかどうかを確認する勇気はなかった。

「⋯⋯悪りぃ。初めて会うヤツにする話じゃなかったな」
「⋯⋯いや。構わないよ」
「で、お前はいつここに来たんだ? 噂すら聞いたことないぞ?」

 神妙な空気を打ち破るべく、チェイニーは明るく声を張り上げた。笑顔は若干引きつっているし、声も無理しているのが手に取るようにわかる有様だ。だがマルスは特に何も言うことはなく、穏やかに微笑んでチェイニーに合わせてくれた。

「昨晩遅くに。もしかしたら日が変わっていたかもしれない」
「はぁ?! ホントについさっきかよ! さすがに案内役は寝てるだろうが、召喚士はどこ行った? 代わりに案内くらい出来るだろ」
「一人で大丈夫だと、僕から案内を断ったんだ。夜も更けていたし、眠そうだったから。まあ⋯⋯その。結局、迷ってしまったんだけどね」

 照れくさそうに言い淀む様子には、チェイニーの知るマルスの面影が色濃く残っていた。そのことにひどく安堵して、チェイニーにも余裕が戻る。無理やり浮かべた笑顔ではなく、本心からの笑い声が口からこぼれた。

「バッカだなー、お前」
「返す言葉もないよ。⋯⋯ここで会った縁に免じて、案内を頼めるかい?」
「いいけど、俺もお前の自室なんて知らねえぞ? そもそも用意されてんのかもわかんねえし」
「そうか、困ったな。そういえば、こんな時間にチェイニーはなにをしていたんだい?」
「あー⋯⋯ちょっと、庭に散策をだな⋯⋯」

●メディウスと竜人になったチェイニーの話

 二本の足で立つことにようやく慣れた頃、チェイニーが向かったのは地竜族の王メディウスの御所だった。
 最近のメディウスはめっきりナーガの領域に寄り付かない。竜人となることを断固として拒否し続ける同族への説得で、それどころではないのだろう。この状況で以前のように足繫くナーガの元に通おうものなら、猛り狂った地竜達が己らの王を八つ裂きにしかねない。
 そんな想像が出来てしまう時点で、もう終焉は見えている。メディウスだって理解していないわけではないだろうに、それでも諦めきれないのだろう。チェイニーには、未だにあがき続けるメディウスの気持ちは正直よくわからない。そもそも神竜族は仲間意識が希薄な種族だ。親と子が互いを特別視することもないし、家族という概念がそもそも存在しない。地竜族はその真逆で仲間意識が強く、血の繋がりを重視する。根本的に生き方が違うのだから、理解が及ばないのも仕方がない。
 だがたとえ理解出来なくても、寄り添うことは出来るのだ。神竜と地竜は長きに渡り、手を取り合ってこの地を統べて来たのだから。

 メディウスの御所は静かだった。
 いつもは地竜たちがのんびりと日光浴をしている岩場にも気配はない。
 チェイニーは巨大な洞穴を臆さず進んだ。まだ歩くことに慣れていない足が痛んだが、立ち止まる前には最奥に着いた。地竜の王の寝所でもあり玉座でもあるその場所で、メディウスは生々しい傷跡だらけの大きな体を横たえていた。

「メディウス……!」
「その気配……末の神竜か」

 半ば悲鳴を上げながら駆け寄ったチェイニーを、メディウスが目線だけを動かして捉える。矮小な人の身で見るメディウスは驚くほど大きく、その目に射抜かれただけで灼かれんばかりに気圧された。
 けれど、恐ろしくはなかった。今のチェイニーはメディウスが気まぐれに爪を弾いただけで死んでしまうだろうが、彼がそんなことをするはずはない。

「そうか……お主も長老に倣ったか」
「ううん。自分で決めた。おれは心を喪うくらいなら、身体を喪う方がましだと思ったからさ」

 横たわるメディウスの鼻先に手で触れながら、チェイニーは巨体を見上げた。生々しい傷跡はどれも、地竜族の太い爪痕のように見えた。

「……その傷は、地竜たちが?」
「ふん……我が一族は頑固者が多くてな」

 なんでもないふうにメディウスは言うが、彼の体に刻まれた無数の傷跡を見れば、事態が切迫していることはいやでも知れた。メディウスの説得は通じておらず、理性を失いつつある地竜たちは王の体を傷つけることを厭わない。そしてメディウスは大切な同族に牙を剥くことなど到底出来ず、無抵抗でひとり耐えているのだろう。

「……地竜たちは、やっぱり無理そうか?」
「……ああ。獣に堕ちるのも時間の問題だろう」
「メディウスは?」

 ずっと聞きたかったことを聞くなら今しかない。
 チェイニーはメディウスの目を覗き込んで尋ねた。この誇り高い地竜の王は、きっと滅ぶ同族と命運を共にしたがっている。自分ひとりが生き延びるなど、屈辱以外のなにものでもない。
 それでもチェイニーは、ガトーやナーガたち神竜族は、この気高き王が卑しい獣に堕ちる様を見たくはなかった。わかっている、酷く傲慢で勝手な願望だ。だがメディウスはチェイニーの問いかけに即答はしなかった。迷いがあるのなら、つけ込む隙もあるということだ。

「おれ、メディウスの大地の色した大きな身体がずっと羨ましかったんだ。子供の頃は大きくなったらナーガやガトーより、メディウスみたいになりたいって思ってたよ」

 チェイニーは小さな人の手をメディウスの眼前にかざしてみせた。なんの力もない、醜く矮小な手だ。

「⋯⋯それは絶対叶わなくなったけど、この身体を好きになれるかわからないけど、それでもおれは今でもおれだよ。メディウスを、そんなふうに傷つけようなんておもわない」
「……そうか」
「おまえの選択を尊重する。でもおれは……死んでほしくないよ、メディウス」

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