おれが生まれた時、竜族は既に滅びの兆候を示していた。
はじまりは出生率の著しい低下だった。神竜、地竜、魔竜、火竜、氷竜、飛竜。大陸に住まう全ての竜族は子供に恵まれなくなり、気付いた時には最年少者の齢が千を超えていたらしい。
長老たちはこの時点、あるいはもっと前に、種の滅びを悟っていたんだろう。それでも滅亡を避けるため、彼らは必死で存続の道を探していた。余計な混乱を招かないようにと、堅く口を閉ざしながら。
当時多くの竜族が、不穏な空気を確かに感じ取っていたはずだ。だが千年、万年を平穏のぬるま湯で過ごした歴史が、彼らの目を曇らせ感覚を鈍らせた。特に前四千年頃はナーガ率いる竜族の最盛期で、そこから三千年ほど大陸を事実上支配していたから、言ってしまえば驕りだってあっただろう。
とはいえ、長老がもっと早くに皆へ周知していたら、竜族が一丸となって滅びに抗ったら、なんて無意味なもしもの話をするつもりはない。どんなに栄えたものもいつかは必ず滅びる――竜族の滅亡は、そんな当たり前の理の結果でしかない。過程が多少違ったところで、結末は変わらなかっただろう。
滅亡に踏み出した竜族に子が生まれなくなって千年と少しが経った前千年頃。おれはそんな時代に突如として生まれた、神竜族の子供だった。
初めて目を開けた日のことは、今でも鮮明に思い出せる。自分を取り囲む全ての竜が、歓喜に咽び泣いていた。神竜族のみならず地竜族や魔竜族など、全ての竜族が千年ぶりに生まれた新たな竜の子であるおれを祝福していた。
彼らの歓喜が福音になったからなのか、単にそういう性質だったのか、おれは幼竜の頃から大人顔負けの知識と力を持っていた。特別才能があったわけじゃなく、ただただ早熟だったんだ。免れない滅びが先にある以上、悠長に幼子をやっている場合じゃなかったってことだろう。
そんな事情は見て見ぬ振りをして、優秀な子だと竜族は沸いた。どんな知識を与えてもすぐさま吸収する様が面白くもあったのか、種族の垣根を超えあらゆる竜がおれに様々な知恵を授けてくれた。この経験が、後に得るあらゆる存在を模倣する変身能力の礎となっているように思う。
おれはたいそう愛されて育った竜だった。
友だちと呼べるような同世代の相手はいなかったけど、関わる全ての竜が人間でいうところの家族も同然だった。おれが早熟で賢い子供ではなかったとしても、彼らは変わらぬ愛をおれに注いでくれただろう。数千年の時を経ても尚そう確信出来るくらいに、彼らはおれに途方もなく優しく、時に厳しかった。皆がおれを「末の神竜」と呼び、全身で慈しんでくれた。
おれのことを末の神竜と呼びはじめたのは、地竜のひとりだった。他の竜たちは「神竜族の末っ子」くらいの意味でその名を用いたが、最初におれをそう呼んだ竜は、もっと複雑な想いをその音に乗せていたと思う。
その名を、音を、おれが最初に認識したのは生まれ落ちて目を開いたその瞬間だ。自分をぐるりと取り囲む竜たちの中にあった、一際大きな身体の地竜。金色にも緋色にも見える不思議なゆらぎのある瞳は、おれが生まれて初めて見た焔だった。
吸い寄せられるように目が合うと、地竜は全てを灼き尽くしかねないその焔を細めて、そして言った。
「よく生まれてきてくれた、末の神竜よ」
それはごく小さな呟きで、恐らくおれに聞かせるためのものじゃなかった。その地竜が感極まってもらした、独り言のようなもの。けれど不思議と他の竜の歓喜にかき消されることもなく、その呟きはおれに届いた。
おれが最後の竜になるかもしれないことを、この地竜は理解していた。滅びへ向かう衰退の時代に生まれてしまった幼竜に対する憐憫が、その呼び名には含まれていた。
祝福と希望で覆い隠されたそれに、おれは確かに気付いてしまった。目に焔を宿す厳つい地竜のわかりにくい優しさこそが、おれが初めて受け取った福音だった。それは生まれたばかりの柔い身体に沁みて、おれという竜の一部を作る土台となった。
だからおれがその地竜に懐いたのは、ある種必然だったんだろう。あいつは滅多に姿を見せなかったが、だからこそ幼いおれはその姿を見かけるなりすっ飛んで行っては、巨躯の後ろをついて回った。
大地をしっかりと踏み進める足元をうろちょろしていると、地竜はわざと作った怖い顔と声で「踏み潰してしまうぞ」と牙を剥いて凄んでみせたもんだ。おれはあいつのその顔が大のお気に入りだったから、邪魔にならない程度に纏わりついては凄む表情を引き出して笑い転げた。そうするとあいつは仕方の無い子だと破顔して、おれをそっとつまみ上げ、その広い肩や背に乗せてくれたんだ。まだ未熟な自分の翼で飛ぶよりもうんと高い視線で見る豊かな大地は、あいつの上でしか見ることのできない、特別な景色だった。
これは早熟だったおれの数少ない、幼竜らしい思い出だ。
時代にも周囲にも自分にさえも、おれは賢しい末子であることを求められていた。だけどその地竜のそばにいる時だけは、無垢で無邪気な幼竜でいられた。
あいつは地竜族の王という立場上、いつも多忙を極めていた。会う度に鬱陶しく纏わりつく幼竜を内心どう思っていたかは知らないが、少なくとも邪険にされた記憶はない。
あいつは――地竜族の王メディウスは、幼いおれに優しかった。他の多くの竜と同じように秩序と安寧を愛し、時に神竜族の王ナーガの腹心として竜族の平和のために辣腕をふるう、気高き王だった。
おれを背に乗せて大地を駆けながら、メディウスは口癖のように言ったものだ。
「案ずるでない、末の神竜よ。お主の悠久の幸福は、我ら先の竜が必ず守ってみせようぞ」
悪戯ばかりの幼い竜を含めた竜族すべての未来を守ろうとする、しわがれた、けれど力強く優しい声。
大地と同じ温度の背の上で聞いたその声を、おれは今でも覚えている。
メディウスが召喚されたと聞いた時、考えるより先におれの身体は勝手に走り出していた。行動だけはまるで幼かったあの頃みたいだ。気配を感じるなり喜んですっ飛んでいった無邪気さは、もうどこにも残ってはいないけど。
運動不足が祟ったか、走り出してすぐ息が切れた。戦争は嫌だとサボり過ぎたツケってやつだ。アスク王国の英雄が詰め込まれた兵舎は広い。自由に動ける敷地まで含めると更に広い。こんな広い場所でたった一人を探すのは、おれが筋骨隆々の体力バカだったとしても骨が折れるし、普段なら挑戦する前に諦める。だけど、おれはあいつの気配を間違えたりしない。何の情報もなくたって、探すまでもなく最短距離で辿り着ける。
でもメディウスに会って、おれはそれで一体どうしたいんだろうか。純粋な喜びだけがあった幼い頃と違って、おれの胸中は不安と恐れでいっぱいだ。だって自分がメディウスにとって「裏切り者の敵」であることくらい、言われるまでもなくわかってる。
ガトーはナーガの命に従って人間についた。メディウスはナーガの命に逆らって竜族を守ろうとした。おれは中立を気取りながら結局マルスを助けたんだから、メディウスからしたらおれやガトーは人間に与した裏切り者だ。
わかってるんだ。いくらアスク王国が清濁併せ呑む懐深い世界でも、全てとおてて繋いで仲良しこよしなんて、無理だって。
メディウスはアカネイア大陸に暗黒の時代をもたらした、討つべき巨悪である――これがマルスたちから見たメディウスだ。
異論はない。事実として、メディウスは人間を滅ぼすためにドルーア帝国を興した。神竜族に次ぐといわれたその力で、罪なき人々を多く殺めた。強大なその力は災厄そのものだ。人間たちがメディウスを憎み、抗い、そして討ったのは必定だった。
だけどおれは、メディウスを憎んでなんかない。憎めるわけがない。
地竜族のほとんどが竜を捨てられずに理性を失い獣になったが、メディウスだけは長老やナーガに従った。王たる立場の者が何たることだとなじられながらも、メディウスは石の中に竜を封じた。神竜族と共に地竜族でただ一人、部族の決定に逆らって人間を守ることを選んだ。最後に下した王命は、それぞれの竜の心を重んじる、という短い一言だった。
理性も知性もなくした地竜族の集団を御せる者なんて、竜族でもそうそういやしない。神竜族でもガトーが全力を出してようやく、危なげなく対処出来るのはナーガか、地竜族の王たるメディウスくらいだ。
だからメディウスは人間を守るために、獣に堕ちたかつての同胞を狩らなければならなかった。部族と決別した時には覚悟していたことだろうが、何度も何度も狂った同胞を手に掛けなければならなかったあいつがどんな気持ちだったかなんて、誰も想像すら出来ないだろう。相手はメディウスにとって、決別したとはいえ愛する同族だ。狂ったそれらと対峙し、屠り、弔うあいつの背中を、おれは実際何度も目にした。弱音の一つも吐かなかったあいつが、同族の眠る竜の祭壇の前で肩を震わせているのも盗み見た。
そんなメディウスを、最初に裏切ったのは人間だ。
おれはメディウスが人間を憎む気持ちが、よくわかる。
アスク王国の片隅にある、深い森を抜けた先の人気のない丘の上。人の手が入っていない無垢なる大地を一望出来るその場所に、メディウスは一人佇んでいた。
人の姿をしていても、メディウスの背中は広い。だけどおれはもっと大きくて広いメディウスの背中を知っているから、ずいぶん小さく感じてしまう。
声を掛けようと言葉を探している間に、メディウスが振り返った。昔と変わらない焔を宿した目に射抜かれて、緊張で全身が強張る。
「久しいな、末の神竜よ」
懐かしい声が懐かしい名でおれを呼んだその瞬間、メディウスが召喚されたと聞いたその時と同じく身体が勝手に駆け出していた。
体当たりのような勢いで飛びつく。大きな身体は両手をいっぱいに伸ばしても到底包めなくて、抱きしめるというよりは腹の辺りに張り付く格好になってしまった。メディウスはさすがに抱き返したりはして来なかったけど、壊れ物を扱うみたいにおれの頭をひと撫でしてくれた。幼かった俺を構ってくれた、あの頃と同じ穏やかさで。
「おれ、もう、末じゃない。チキがいるし⋯⋯おれたちの系譜かはわかんないけど、他の神竜だって、ここにはたくさん、いるし」
「ナーガの娘とはついぞ会うことはなかった。わしにとっての末の神竜とは、今も昔もお主のことよ」
「そっか⋯⋯そっかぁ⋯⋯」
情けないことに、まともな言葉は何も出てこなかった。当たり前に拒絶されると思っていたから驚いたのもあるが、メディウスがあまりにも昔と変わらなかったから、心が子供に戻ってしまったみたいだ。
竜に戻れなくても、数千年の時を経てすっかり大人になった今でも、メディウスにとっておれは同じ竜族の守るべき末子であるらしい。そう実感すると同時に込み上げてくる感情を腹の底に押し返すのに必死で、とても言葉なんて見つからない。
暗黒竜の気配を確かに纏っているけれど、変体しようがメディウスはメディウスのままだった。人間の裏切りに怒り、虐げられた竜人たちを救おうと奮起した、同族に優しい王に変わりなかった。そんなメディウスが今でもおれを同族と認めてくれていることが、哀しくて淋しくて、そして途方もなく嬉しかった。
