空を真っ二つに裂いて落ちた光の杭は、メリセウス要塞を吹き飛ばした。比喩ではなく、文字通りに。
頑固な老将軍と渾名されるほどの堅牢さを誇った要塞が一瞬で跡形もなく消し飛んだのだ。確かに目の前で起こったことなのに、まるで現実味がない。
あまりの事態に、リンハルトの頭は一切の感情を置き去りにして冷徹な結論を弾き出していた。考えるまでもない、内部に踏み込んでいた主力部隊は全滅だ。堅牢な要塞を粉々にする爆発に巻き込まれて、生きていられる方がおかしい。
こうなっては、敵も味方もなかった。誰もが悲鳴を上げながら、この惨状から少しでも遠くに逃れようと駆け出していく。藁を掴むようにして敵と手を取り合いながら、あるいは味方を踏み台にして我先に。阿鼻叫喚の地獄絵図の真ん中でリンハルトはただ一人、逃げ惑う人々の流れに逆らって重い一歩を踏み出していた。
光の杭が落ちる前に受けた早馬の伝令では、指揮官であるベレトの隊が別動のクロードとの合流のため、戦線を一時離脱するとあった。合流地点はリンハルト率いる後方部隊が張った布陣のすぐ近くだ。もしかしたら二人は爆発に巻き込まれずに済んだかもしれない。
一縷の望みに縋り、リンハルトは烟る土煙の中を歩いた。淀んだ空気で視界が遮られているせいで直視せずに済んでいるが、辺り一面が死体だらけなのだろう。空中に飛散する大地だったものに混じって、噎せ返るような死と血の臭いが鼻につく。それは脳髄にひたひたと染み渡る錯覚さえ覚えるほどに濃密で、リンハルトは口を押さえて吐き気を堪えた。ぐらりと揺れた視界の隅にある黒い塊に意識が向いたのは、その時だった。
最初はただの死体だと思った。周りに嫌というほど散乱している死の内の一つに過ぎないと、そう思った。何となしに見つめたそれが、見慣れた外套をまとっていることに気付いた瞬間、リンハルトは声を上げた。
「先生……っ!」
悲鳴じみた自分の声すら置き去りにして、リンハルトは駆け出した。喉元に棲み着いた吐き気も、全身にまとわりつく死臭も、何もかも忘れてただ走る。駆け寄るなり傍らに膝をついて覗き込めば、力なく地に伏した塊が紛れもなくベレトであることがわかった。この惨状の中で彼を見付けられた安堵は、すぐに見間違いであって欲しかったという叶わぬ願いにすり替わった。
彼を一目見て真っ先にリンハルトの脳裏を過ったのは、「助からない」という直感だった。どこが傷かもわからないくらいに全身が血まみれで、口元に手をかざしても呼吸がほとんど感じられない。抱き起こそうにも迂闊に触れればそれが致命傷になってしまいそうなほど、彼は虫の息だった。
今はまだ辛うじて生きているだけの、数秒後に死体になるもの。目の前の彼をそう判じてしまう自分の頭を消し飛ばしたくなる衝動を堪え、リンハルトは唇を噛み締めると、翳した両手にありったけの魔力を込めた。
魔力を薪に、セスリーンの小紋章が浮かび上がる。いつもなら浮かんですぐ消える紋章が白魔法の光の中で揺らめき、その輪郭を濃くしていく。手のひらと心臓が不穏な熱で炙られていることに気付いても、リンハルトは魔力を走らせることをやめなかった。自分がひび割れていく感覚よりも、目の前にいる彼を喪うことの方が、ずっとずっと怖かった。
「……リン……ハル、ト」
「っ、先生」
掠れた弱々しい声に名を呼ばれ、一瞬リンハルトの気が逸れた。霧散しかけた魔力を慌てて手の中に引き戻し、唇を引き結んで治療に専念する。会話などしている余裕はない。ベレトが口を開くその度に、血の塊と命がそこからこぼれてしまうのだから。
魔力をひたすらに走らせて、その上に紋章を滾らせて、目の前の死にゆく身体を繋ぎ止める。自身の寿命を分け与えても構わないとばかりに治療を続けるリンハルトに、ベレトの視線が向けられる。だがその目は既に光を失いかけており、焦点も定まっていない。おぼろげな視線から逃れるように目を瞑り、リンハルトは手元に全ての神経を集中させる。全てを振り切ってただ治療に専念したいのに、微かに聞こえる弱々しい声から耳を塞ぐには手が足りない。
「逃げ、る……んだ……帝国に、帰っ……」
「先生、黙って」
リンハルトがいつになく強い言葉を使っても、ベレトは黙らなかった。血を吐き、命を削り、彼はうわ言のように繰り返す。聞きたくもないのに勝手に耳に入ってくる途切れ途切れの言葉を繋ぎ合わせると、それは思いもしなかった内容だった。
――リンハルトは同盟軍の捕虜ということになっている。それが虚偽であると看破されないよう、裏では実際にリンハルトの身柄を盾に帝国軍との交渉を行っていた。万一同盟軍が敗北するようなことがあった時、故郷である帝国にリンハルトを帰せるように。
初耳だ。ベレトがそんな策謀を巡らせていたことに、リンハルトは気づいていなかった。
捕虜であるリンハルト一人なら帝国は受け入れるはずだ、この混乱に乗じて脱走したとでも言えばいい。だから、逃げろ。息も絶え絶えに、ベレトはそれだけを繰り返す。もうとっくに死んでいてもおかしくない彼が、こうして意識を保ち言葉を発しているのは喜ばしいことのはずだ。でもその言葉に生きる意思を感じられないのなら、リンハルトにとっては無意味だった。その声を煩わしく思いたくなどないのに、耳障りで仕方なかった。
「わかった、わかりました。逃げますよ、貴方の治療が終わったらね……!」
振り切るようにかぶりを振り、自分の悲鳴で聞きたくない言葉を掻き消して、リンハルトは残り少ない魔力の全てを手のひらへ、目の前の傷だらけの身体へと注ぎ込む。セスリーンの紋章が輝きを増す度に、自分が内側からどろりと溶けていくような、外側から剥がれ落ちていくような、得体のしれない不快感がリンハルトの全身を包んだ。これはもはや、白魔法ではないのだろうと頭ではなく直感で理解する。人が人知を超えた力を使えばどうなるかは、この酷い戦場で散々見た。それでも、たとえ獣に身を窶しても、彼を救えるのならそれでいい。
白い光のその中で、紋章が妖しくゆらめいている。静かに吹いた風が深い緑の長髪をたなびかせ、呼応するように光は強さを増していく。それは歌劇に謳われる、古戦場で死に瀕した者をあまねく救った聖女を彷彿とさせるだろう。だが烟る戦場には既に人気がなく、その光景を目にする者は誰一人としていなかった。
◇
どれほどの時間そうしていただろうか。
魔力もそうでないものも、自分の中にあるものは残さず使い切った感覚がある。もう指一本動かせないと思うのに、リンハルトは前へ一歩、また一歩と歩き出そうとしていた。ぐったりとしたベレトの身体を、その肩に半ば抱え上げて。
「……リンハルト、大丈夫だから、逃げ……」
リンハルトの肩を借り、引き摺られるように歩くベレトの声はだいぶ生気を取り戻している。だというのに彼は、死にかけていた時と同じことしか言わない。
「ええ、今逃げてる最中ですよ。貴方を失う可能性から、全力で」
一人で逃げろ。自分が一緒では帝国に戻れない。どうかこの手を放してくれ。そう繰り返すベレトの声を右から左に聞き流し、リンハルトは前に進む。正直なところ、どこへ向かうべきなのかはわからない。とにかくここではないどこか、帝国以外のどこかへ行けるなら、それでよかった。
リンハルトは遠くの空を見上げた。メリセウス要塞だったものに背を向けてしまえば、そこにあるのは嘘みたいに穏やかな青空だ。その下でどれだけの命が消えようと変わらない空を見つめ、リンハルトは独り言のように呟く。
「ずっと僕を見てくれていた先生ならわかるでしょう? 僕、逃げるのは得意なんです。貴方一人担いだままでも、きっと逃げ切ってみせますよ」
ベレトの身体を支え直し、リンハルトは歩き続ける。その背に追い縋る終わりを、全身を撫でる睡魔を振り切って、前だけを見つめるその顔に、穏やかな笑みを浮かべながら。
◇
◆
――その気丈な笑顔に絶望する。
同じ笑顔を何度も見て、同じ言葉を何度も聞いた。リンハルトは嘘を言わない。本気で二人揃って逃げ切るつもりでいるのだろう。それがどれだけ分の悪い賭けになるか、賢いこの子が理解していないはずもないだろうに。
戻せる時間はだんだんと短くなっている。もう光の杭が落ちてくる前には戻れない。
要塞の中枢に踏み込んでいた主要な隊は全滅だ。あの爆発に巻き込まれて欠片も残っていないだろう。大きく穿たれた地面を見て尚希望を持てるほど、楽観的にはなれなかった。
成すべきことをすると言って先陣を切ったローレンツ。必ず皆を守ると強く言い切ったマリアンヌ。皆がやるならと面倒くさそうについて行ったヒルダ。帰って皆で飯を食おうと笑ったラファエル。今度は観光に来ましょうねと未来を見ていたイグナーツ。父の墓前で静かに誓いを立てていたレオニー。不安を飲み込んで気高く前だけを見据えたリシテア。彼らが、彼女らがもういない事実から目を背けられたなら、どんなに楽なことだろう。
別動隊を指揮していたクロードはどうだろうかと見上げた空は灰燼で烟り、そこには飛竜どころか鳥一匹の影すらも見当たらない。いつだって策を先んじる彼がこの状況で飛んでこないということは、そういうことだ。
敵の将の中にはリンハルトの無二の親友がいると聞いていた。今回の作戦でリンハルトが分隊の後方支援に回された理由の一つだ。土壇場でリンハルトが離反する可能性を、軍としては捨て置けなかった。本人にも話して納得してもらった配置だったが、自分が信頼している教え子を軍として疑わなければならない不甲斐なさが悔しかった。
だからというわけではないが、本隊のローレンツ達には可能であれば知己との交戦は避けるように伝えてあった。祖国も家も何もかも捨ててまで付いてきてくれたリンハルトから、これ以上何も奪いたくなかった。もちろん自軍の命が最優先ではある。その上で可能であれば、と頼んだ時、ローレンツは「先生と級友のためだ。任せてくれたまえ」と柔らかく笑って請け負ってくれたのだ。彼はきっと、この個人的極まりない未熟な願いを聞き遂げてくれたはずだ。確かめる術も確かめる意味も、もうなくなってしまったけれど。
一瞬、たった一瞬だ。守りたいもののほとんどが、一瞬で目の前からいなくなった。己の力不足を嘆く暇などないくらい、無慈悲に全てが消え失せた。
自分に残ったのはこの子だけだ。この子が自分のことを諦めてさえくれれば救うことが出来るのに、何度巻き戻してもリンハルトは諦めてくれない。逃げていいと窘めても、逃げなさいと叱りつけても、まったく効果はなかった。
教師の任に就いたばかりの頃は度々講義をすっぽかされたし、悪びれもせず睡魔のせいだと責任転嫁する言葉を散々聞いた。面倒事から、血が流れる争いから、いつだって彼は逃げ出したがった。そんな彼に手を焼かされ続けた過去は遠く、今回ばかりは逃げ出して欲しかったから急拵えの策を練った。何度か失敗をなかったことにして行き着いたのが、死にかけで血まみれの指揮官という、この上なく面倒臭くて鉄錆臭い状況だ。彼が逃げきるのを見届けなければならないため完全に死ぬわけにはいかなかったが、見届けられれば後はどうなっても構わない。それに助からないと一目で判断出来れば、賢い彼をきっと迷わせずに済むだろう。そう思って絶対に助からない傷をわざわざ負ったのに、まさか治されてしまうとは思わなかった。
血まみれの身体を躊躇いもせず抱えて歩くリンハルトの横顔が、こんな時なのに眩しくて誇らしくて、それ以上に物悲しい。リンハルトは本当に強くなった。彼はこんな強さを欲しがってなどいなかったのに。血なんて浴びたくない、木漏れ日だけを浴びていたい。そう願う彼の言葉を、確かに聞いて頷いたことがあったのに。
癒されてしまった身体は口から血の代わりに嗚咽を洩らす。気遣うように、リンハルトが足を止めた。「先生、どこか痛みますか」と尋ねてくる場違いに穏やかな声が、遥か遠くで響いている。
痛いところなんてどこにもないんだ。傷は全部、リンハルトが塞いでくれたから。彼が紋章を、おそらく命をも燃やしてまで現世に繋ぎ止めてくれた自分の身体を、本当はもっと大事にしたかった。彼の言う通り、二人で逃げられるならそうしたかった。でもそうした先に、たった二人で奮起して皆の仇討ちを誓えるような、そんな未来はなかったんだ。自分かリンハルトか、どちらかを選ばなければならなかった。選択肢なんて、実質ないも同然だった。
自分の命が惜しくないわけではない。ただ、自分の命以上に、この子に生きていて欲しいだけだ。それにいつかの日にした約束を、違えるわけにはいかなかった。自分がいる限り死なせない。彼自身にそう固く誓ったことを、忘れた瞬間などないのだから。
残った力の全てを振り絞って、愛しい教え子を胸に抱く。血と争いを厭う、眠たがりな陽だまりの子。彼をのどかな木漏れ日の下に返したい一心で、動きもしない心臓がひっきりなしに啼き続けている。
突然抱きすくめられたリンハルトは、不思議そうな顔をしていた。その表情が5年前、彼がまだあどけない学生だった頃とあまりに変わらないものだから、身体の内側から込み上げる懐かしさと愛おしさで目頭が鈍く痛んだ。
「リンハルト」
戦場の煤にまみれた髪の毛を血まみれの手で掻き抱いて、彼の名前をひりつく喉の奥から絞り出す。鼻先が触れ合う距離で覗き込んだ教え子の碧眼には、諦めの悪い教師の下手くそな笑顔が映っている。
目を閉じ、額を合わせ、腕の中のぬくもりを確かめながら、情けなく震える声で言い聞かせた。
祈るように、縋るように、乞うように。
「次こそは、先生の言うことを聞いてくれ」
――拍動が、響いた。
