リトスの外れで神竜が直接率いる少数精鋭部隊が不思議な指輪を見つけたという話は、戦況の報告と共にフォガートの耳にも届いていた。
 紋章士の指輪のような特別な力があるわけではない、ただの装飾品。先代神竜ルミエルから当代神竜リュールへ継がれた、優しい贈り物。約束の指輪と称されるそれは、神竜が長いその生涯で唯一人パートナーと認めた相手に贈る習わしがあるらしい。
 知られざる十三番目の指輪では、という根も葉もない噂が霧散してすぐ、人々の興味は新たな噂話を口ずさんだ。
 ――神竜様は、誰をパートナーに選ぶのか?
 冒険譚やおとぎ話の一節のような、甘美に浮かれた俗な噂話だ。だが最終決戦を前にした今、ひりつく空気を和らげてくれるこの話題を歓迎する者は少なくなかった。妄想じみた想像に想いを馳せる者も中にはいたが、彼らだって結局はリュールの幸せを心から願っている。誰が選ばれても選ばれなくても、リュールに付いていくと決めた者だけがここにいる。無責任な夢想がなんとなく許される雰囲気なのは、その共通認識があるからだろうか。
 普段なら夢見がちな仲間に適当な相槌を打ちながら話に加わるフォガートだが、今回は風に乗ってきた噂話を聞き流すに留まっている。避けているというわけではなく、身体のコンディション調整やら得物の整備やらで機を逸してしまったのだ。
 だから誰と語り合うでもなく、弓の手入れをしながらぼんやりとフォガートは考えていた。一番気になったのは、件の指輪がどのようなデザインをしているのか、ということだ。貴金属系の装飾品に強いこだわりを持つソルムの民として、当然の興味である。
 リュールが誰を選ぶのかについてはさっぱり見当もつかないが、誰にも渡さないのではないか、とフォガートは思った。あの博愛主義の神竜に、誰か一人を選ばせる行為は少し酷な気がした。それにこの軍の仲間のほとんどはただの人間だ。千年を超えてなお生きる神竜を、人間の寿命は置き去りにしてしまう。瞬きほどで喪われる幸福は、確実にもたらされる離別の苦しみと釣り合うだろうか。ましてやリュールは目覚めてからの短い間に母をなくしている。その胸の痛みは、きっとまだ癒えていないだろうに。

 そんなことを考えながら得物の手入れを終えたフォガートは、思いもよらなかった形で気になっていた指輪の現物を見ることになった。
 それは澄んだ青色の宝石があしらわれ、細く伸びた金が交わって円環を作る、実にリュールらしい意匠の美しい指輪だった。先代神竜のルミエルは心から我が子を愛していたのだと、一目でわかるくらいに愛情に溢れた贈り物だった。
 フォガートはそれを、あろうことかソラネルに用意された自室で初めて目にすることになった。用事を済ませたフォガートが自室に戻ると、何故か憔悴しきった様子のパンドロが中にいたのだ。合鍵は臣下二人にそれぞれ渡してあるが、彼らは一度たりとも断りなくフォガートの部屋に入ったことなどなかった。珍しい事態に入り口でたたらを踏んだフォガートの顔を見るなり、パンドロは縋るような目をして、震える両手を差し出してきた。
 その上にあったのだ。今一番注目されているといっていい、件の約束の指輪が。

 フォガートの親友で臣下であるパンドロは、軽薄そうな言動や見た目に反して敬虔な神竜信徒である。フォガートは信仰に対してパンドロ以上に真面目な聖職者を見たことがなく、それはソルムの外を知っても変わらなかった。
 人間は俗物だ。聖職者といえどそれは変わらない。何ならお固い職業の者ほど俗世に塗れている例なんて枚挙に暇がないだろう。信仰の薄いソルムではあまり聞かないが、他国の教会が起こした不祥事が国同士の情報通信網に他言無用の注意書き付きで載っていることなど珍しくもない。
 パンドロ本人は否定するだろうが、彼はフォガートが知る中でもっとも俗世から遠い聖職者だった。信仰を隠れ蓑にした薄汚さとは一切無縁の清廉さを、彼は当たり前のように持っている。幼い頃の無垢な憧れをそのままに、今も祈りに乗せている。頭でっかちな同業者から批判されがちな宴だって、私利私欲で行っているわけではない。教会で行われる宴でパンドロは酒を飲まないし、食事もそこそこにずっと信徒の話を聞いている。楽しむだけじゃなく人の役に立つのも悪くないと、責務とは無縁のところで心の底から思えるのが、彼の強みだ。
 フォガートは時折、パンドロが自分より年上の男性だということを疑うことさえあった。それくらいに、人間のある種穢らわしい欲を感じさせないのがパンドロという男だった。

 だから本人の口から「神竜様に不敬な想いを抱いてしまって」と告白された時、フォガートは驚きのあまり言葉も出なかった。年の近い信徒に囲まれる中で浮いた話の一つもなく、それこそ情欲とは無縁とばかりに男同士の猥談も笑って聞くだけで加わることがなかったパンドロが、よりにもよって信仰対象に想いを寄せた。まるで寝耳に水である。
 いつからと問えば、パンドロは震える声で実際にお会いしてから程なく、と答えた。フォガート達が神竜軍に合流したのは後の方だが、それでも今日に至るまでにそれなりの時間が経っている。その間パンドロはずっとリュールに対して、信仰心とは違う想いを温めていた。間近にいたフォガートがまったく気付かないくらい、完璧に隠し通しながら。

 敬虔なパンドロは自分の不敬を許せずに、全てをリュールに告げたという。本人としては愛の告白というよりは罪の告白、懺悔のつもりだったようだ。
 返事は不要だと言ったパンドロを引き止めて、リュールは何やら言葉を重ね、それから指輪を差し出したらしい。今もパンドロの両手に包まれている指輪がそれだ。つまるところ親友は神竜を、神竜はパンドロを、相手にさえ気付かれないほど密やかに想い合っていた。パンドロの懺悔をきっかけに、今日この日に晴れて二人は結ばれたというわけだ。

 嬉しかった、と指輪を握りしめてパンドロは呟く。途方もない幸福で押し潰されそうだったと、そう回顧する彼の顔は蒼白だ。手はずっと震えているし、蜂蜜色の瞳は迷子のように揺れている。
 フォガートはパンドロを自分の寝台に座らせて自分はその正面に座り込み、俯きがちな親友の顔を見上げて、震えるその手を取った。いつも明るく快活で精神的に安定しているパンドロが、こうも憔悴している姿を見るのは初めてのことだった。

「嬉しかった⋯⋯のに、一人になって賜った指輪を見てたら、すごく、怖くなって⋯⋯」

 途切れ途切れに言うパンドロの震えは手だけでなく、もはや全身に及んでいた。怯えて丸まった背を抱きしめるようにして撫でながら、いつもと逆だなあとフォガートは思う。弱ったフォガートをパンドロはいつだって上手く宥めてくれたものだが、同じ事を自分は出来るだろうか。

「そもそも神竜様に向けていい想いじゃないんだ。こんな、不敬で穢らわしい気持ち、伝えるべきじゃなかった。⋯⋯完全に私欲だった、自分が許されたくて、ただそれだけのために言ったんだ」
「⋯⋯でも、神竜様はパンドロを責めたりしてないだろ? 指輪くれたんだし」
「あの方は、お優しいから⋯⋯。なんでだろうな、オレの信仰ってさ、ガキの頃に救われたから、そのお礼っつーか感謝っつーか⋯⋯それだってオレの一方的な気持ちでしかないけどよ、でもこんな⋯⋯こんな醜いもんじゃない、って、思いたかったのに⋯⋯」

 いつもは順序立てて理路整然と話すパンドロが支離滅裂に吐き出す言葉は、どれも酷く痛々しかった。鋭く研がれたそれらは全てパンドロ自身に向けられている。フォガートがパンドロの耳を塞いだとしても、内側から突き刺さる言葉の刃にはまったくの無意味だ。
 肯定も否定もせず、小さな相槌だけを打って、フォガートはパンドロの背を撫で続けた。腕の中にすっぽりと収まる親友を小さく華奢だと感じてしまうことに、一抹の寂しさが過った。

「⋯⋯神竜様は許して下さったけど、でもオレは、そんなあの方を置いていく。共にいられるのは長くて数十年。これだけ罪を重ねたオレは地獄行きだ。死後何千年待ったって、二度と⋯⋯」

 会えない、と続く言葉は掠れて消えた。パンドロは祈るように縋るように、指輪を包んだ両手を口元に寄せている。伏せられた長い睫毛が涙で濡れていないのが不思議なくらいに、嗚咽混じりの声だった。

 どうしてそんなに自分にだけ厳しいのだろう。それが聖職者というものだと言われればそれまでだが、フォガートは不思議で仕方なかった。パンドロが地獄行きだというのならフォガートだって、何なら神竜も含めて軍の仲間は全員仲良く地獄行きだ。血で汚れていない手を持つ者なんて、一人だっていやしない。それなのにパンドロの言葉の端々からは、一人で地獄に落ちるのだという思考が滲み出ている。フォガートの、神竜の、仲間全員のあるかもわからない死後の安寧を祈り、そのために一人で全てを贖おうとでもいうのだろうか。聖人らしい自己犠牲精神だが、フォガートにしてみればそれはただの傲慢だった。親友を大切に想うフォガート自身の気持ちを無碍にする、酷い傲慢だ。

 脳裏に焦げ付くような情動が走り、フォガートは唇を引き結んだ。腕の中で未だ震えているパンドロに、少しの傷もつけたくない。そう思ったら、何も言えなくなった。
 本当は言いたいことが山ほどある。これから先、パンドロが今抱えている罪悪感が薄れることは恐らくない。信仰対象に懸想したその罪を、神本人が許したってパンドロ自身が許さない。フォガートにいわせれば罪でもなんでもないそれは、呪いのようにこの先パンドロの生涯を縛るだろう。彼は神竜の隣で、ずっと穏やかに微笑んで過ごすはずだ。その胸の内に渦巻く罪の意識に、内側からずたずたに引き裂かれながら。
 そんなに苦しいなら、やめなよ。
 こぼれそうになった言葉を、フォガートは無理やり喉の奥へと押し返す。口に出す気はないけれど、紛れもなく本心ではあった。神竜に指輪を返し、やはりあなたとは契れません、と一言告げればいい。それなら苦しいのは一時だけだ。今までと変わらない穏やかな信仰が、いつかパンドロを癒してくれる。

「それでも、パンドロは神竜様と一緒にいたいんだね。ずっと苦しくても、あの方の一番近くにいたいんだね」
「……ああ。手を、握って下さったから……絶対に離さないって、お約束したから」
「うん。パンドロは約束を必ず守る男だって、俺が一番知ってるよ。大丈夫さ」

 ぎゅ、とパンドロを抱く腕に力を込めて、フォガートは彼の耳元で囁いた。右手で背中をぽんぽんと叩きながら、左手でパンドロの襟足を梳く。大切な指輪を包むのに忙しいパンドロの両手がフォガートの背中に回されることはなかったが、代わりに甘えるようにすり寄せられた額が、フォガートの空虚な胸をほんの少しだけ温める。

「……このまま少し休みなよ、親友。俺が傍にいるからさ」

 子供じゃないんだから、と力なく笑ったパンドロは、肩を震わせて小さく嗚咽をこぼした。

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