指輪の中は悠久の孤独と、永遠に近い静寂で満ちている。ここには上も下も右も左も、過去も未来も現在さえもない。質量を持たないもののみが存在を許されるこの中で、かつて実在した英雄から切り離された精神は、神竜の声に喚ばれる日を待ち続けている。

 空中で胎児のように丸まって眠るマルスは、ゆっくりと重い瞼を上げた。人の気配など感じるはずのない指輪の中で、確かに自分以外の「誰か」を感知したのだ。
 いつかに起こった邪竜絡みの出来事のような、凄惨な不吉の予感はしない。明らかなイレギュラーではあるが、胸中は不思議と凪いでいる。微かに、でも確かに近付いてくる気配は、自分を喚ぶ神竜の声に、よく似ていた。

 マルスは身を起こした。視線は自然と、少し下の方にいる茜色の人影を捉える。ふわりふわりと空中を漂うマルスに対して、その人影はしっかりと足を地につけて立っていた。指輪の中には天と地も、当然のように存在しないというのに。

「⋯⋯チェイニー?」

 目を丸くしたマルスの口から、自然と名前が転がり落ちた。鮮やかな茜色の髪に映える白い羽飾り、赤を基調とした異国風の服装。かつてマルスと対のようだとも言われた、全身に赤を纏う青年。自身の素性を飄々とした態度で押し隠し、英雄王を導いた神竜族の生き残り。
 マルスにとって彼と旅をしたのは遥か昔の遠い過去だが、忘れるはずもない。チェイニーは記憶と寸分違わぬ姿のまま、真っ赤な瞳を不機嫌そうに眇め、マルスを見上げた。

「覚えてるのかよ」
「忘れるわけないよ。チェイニー、久しぶりだね。でもどうしてここに?」
「大昔に気まぐれで相手してやった人の子が、妙な因果を背負わされたみたいだからな。様子見ってとこだ」

 はぁ、とわざとらしい溜息をついたチェイニーは、心底呆れたとでも言いたげな表情だ。物言いもやたらと刺々しいが、マルスは意に介さなかった。チェイニーが天邪鬼で素直ではないことは覚えているし、何より彼のそういう気性をマルスは好んでいたからだ。
 不機嫌なチェイニーとは対照的に、マルスは上機嫌だった。少しでも彼に近付こうと下降を試みるが、身体は浮いたようなまま、自由に動くことはやはり出来ない。視線の高さを合わせられないことを残念がるマルスを一瞥し、チェイニーは一層不機嫌になった。

「紋章士、だっけか? こんな指輪なんかに閉じ込められちまってさ」
「でもそのおかげで、きみにこうしてまた会えた」
「相変わらずおめでたいことで」

 チェイニーは鼻で笑ったが、その笑い顔には嘲りだけではない何かがあった。気付いたマルスがどうしたの、と問いかけるより先に、チェイニーはマルスを睨み、低い声で言う。

「⋯⋯だから言ったんだ。後悔するって」
「なんのこと?」
「忘れたか? 氷竜神殿へ辿り着くために、おまえが選んだ最悪の選択のことだよ」

 チェイニーは吐き捨てるように言うと、口を真一文字に引き結んだ。それが怒っているというよりは泣くのを我慢しているように見えて、マルスもまた口を噤む。

 チェイニーは忌々しい過去のように言ったが、マルスの記憶によればそうではない。
 賢者ガトーに導かれ、かつてマルスが光のオーブを受け取るべく歩むことになったアンリの道。それは命を枯らす死の砂漠マーモトードを入り口に、業火が迸る火竜の墓場フレイムバレルを越え、人間の生が許されない死の領域に佇む氷竜神殿に至る道だ。山嶺の神殿は竜のためのものであり、人はそこに在るだけで息を削られ死に絶える。
 過酷なこの道を仲間と共に歩むため、マーモトードにあるテーベの塔で、マルスはガトーの遣いとして現れたチェイニーとある契約を交わした。

「懐かしいな。覚えてるよ、あの時はきみに助けられてばかりだったね」

 今でも鮮明に思い出せる。
 テーベの塔で再会した時、マルスはチェイニーの正体をまだ知らされてはいなかった。久しぶりに会った懐かしい友人。何故彼がガトーの遣いなのか疑問に思ったが、チェイニーのことは微塵も疑わなかった。
 だから再会したチェイニーがマルスを一人呼び出した時も、迷うことなく従った。ジェイガンをはじめ臣下はこぞって反対したが、友人だから大丈夫だと説き伏せた。
 そして二人きりになり、チェイニーから「アンリと同じ運命を背負う覚悟があるか」「人間でなくなる代わりに仲間を守れるとしたらどうするか」と問われた時も、答えを一切迷わなかった。

 遠い記憶を思い出しながら目を細めるマルスだが、チェイニーの表情は晴れるどころか、ますます暗く沈んでいった。マルスを睨みつけるチェイニーの眼光は鋭いが、先程よりずっと色濃い悲しみで鈍ってしまっている。

「本当におめでたいやつだな。おれは説明しただろ、これでおまえは幸せにはなれないって。ほらみろ、永劫に道具として扱き使われる人生の幕開けだ」

 苦しげにそう吐き捨てるチェイニーに、マルスは手を伸ばした。触れられないのはわかっていたが、伸ばさずにはいられなかった。

「⋯⋯後悔してるのはきみの方だろう、チェイニー」

 触れられない彼の頬をなぞりながら、マルスはぽつりと呟いた。
 あの時確かに、チェイニーはその契約を呪いだと言った。後になって、かつてアンリも同じ契約を交わしたのだと聞かされた。愛し合っていたアルテミスとついぞ結ばれなかったアンリのように、マルスもまた決して人としての幸せを得られないと告げられた。
 それが友人としての警告で、チェイニーの優しさだと、当時からマルスは知っている。彼は言外に、マルスを逃がそうとしてくれていた。過酷なアンリの道から、封印の盾を掲げる宿命から、これから起こる凄惨な歴史の全てから。
 それをマルスが拒否したために、チェイニーはきっと、ずっと苦しんできたのだろう。

「……ごめんね。あの時ぼくがきみに無理なお願いをしたから。でもきみの導きがなければ、あの戦争はもっと酷い結末を迎えたかもしれない。ぼくはあの時選べる最良の選択をしたと信じているけれど、その選択が救わなかった人もきっとたくさんいるだろう。……きみのように」
「おまえはいっつも人のことばっかりだな! おれのことなんて、どうでも⋯⋯!」
「どうでも良くないよ。チェイニー、ぼくはきみが知ってるマルスじゃない。彼を元にしただけの精神体だ。きみのマルスは遠い昔、人として幸せに生を終えたよ。呪いなんてなにもなかった。きみという友人を得られた人生に満足していた」

 遂にチェイニーはマルスから目を逸らした。ばかやろう、となじる声には力がない。
 固く握られて震える彼の手をとって温められたら良いと思うのに、それが出来ないのがもどかしかった。自分が、マルスが死んでからずっとこんな思いをさせていたのかと思うと、不甲斐なかった。
 同時に、仄暗い歓びが確かにあった。
 チェイニーは今もマルスを忘れずにいてくれている。知識と記憶を引き継いだだけの精神体を、彼はマルスと認めてくれている。ずっとずっと、気が遠くなるような長い間悔やみ続け、こうして会いに来てくれた。きっと元神竜の力をもってしても、容易くはなかっただろうに。

「チェイニー、きみと契約しても結局ぼくはただの人間だった。でも今のぼくなら制限付きではあるけれど、きみと同じ時間を生きられる。やっときみに少し近づけるかもしれないと思うと、こんなに嬉しいことはないよ」
「⋯⋯ばかだな。触れもしない、自由に動けもしないやつがよく言うよ」
「それは⋯⋯いつかぼくの神竜様が、なんとかしてくれるって信じてるよ」

 俯いたまま小さな声で、それでも悪態をつき続けるチェイニーに、マルスは苦笑しながら言った。
 指輪の中で眠っている時間を考えるとチェイニーには及ばないが、マルスもまた長い時間を過ごしてきた。多くの神竜と関わり絆を得たが、マルスにとっての神たる竜は今も昔も、ナーガと連なる三人のみ。中でもチェイニーは、直接契りを結んだ特別な神竜だ。そしてそれ以上に、何にも代え難いたった一人の友人でもある。

「ここはチェイニーには退屈だろうけど、出来たらまた会いに来て欲しいな。ぼくは決して、きみを置いていったりしないと誓うから」

 静かに、だが声に力を込めて、マルスは告げる。
 チェイニーが顔を上げ、マルスを見つめた。険しさがすっかり消え、煌々とした赤い瞳には憐れみと諦めと喜びが綯い交ぜの柔らかな光が宿っている。

 チェイニーがかつてマルスと契約を交わした時、彼が本当に望んでいたのはなんだったのか、今のマルスにはよくわかる。悠久を共に生きる存在を、彼は何より欲していた。その気になればマルスをそう作り変えることすら可能だっただろう。だが優しいかの竜は、結局そうしなかった。呪いと嘯いて、祝福を与えただけだった。
 チェイニーはあの戦争の後、マルスの前に二度と姿を現さなかった。徐々に老い、人として死にゆくマルスを見ていられなかったのだろう。焦燥で今度こそ過ちを犯してしまうのではと不安もあっただろう。彼は口で何と言おうと、徹頭徹尾マルスを慮っていた。
 それをマルスは短い生涯で、忘れたことなど一度もなかった。人間嫌いのチェイニーが、マルスに人のまま逝くことを許してくれた。それを感謝していた一方で、二度と会えなかった寂しさだって確かにあったと、今のマルスは素直に言える。
 当時のマルスがそれを伝えてしまっていたら、チェイニーは有無を言わさず、マルスをアリティアから連れ出しただろう。再び相まみえた時は今度こそ人ではいられないと、マルスは正しく理解していた。それでもチェイニーに会いたいと望むなら、それはもう、人を捨てる宣言に等しい。
 国民を、臣下を、国を、マルスは捨てられなかった。愛した竜が愛してくれたのは、そんなあまりに矮小な、人らしい自分なのだとわかっていた。優しい彼にこれ以上、残酷な選択をさせるわけにもいかなかった。
 けれど、既に人間ではなくなった今なら。

「約束するよ、チェイニー。ぼくにはもう、祖国も仲間もない。でもたった一人だけ、大切な友人がいる。⋯⋯今度こそきみと一緒にいくよ。きみの旅路の、終点まで」
「本当に、相変わらずばかなやつだな⋯⋯。一丁前に見送るつもりかよ、数千年ぽっちほぼ寝てただけのひよっこが⋯⋯」
「そうして欲しくて来たんだろう? きみこそ、相変わらず素直じゃないよね」

 マルスがそう言って笑うと、チェイニーもつられたように笑った。チェイニーの頬に添えられたままのマルスの手に、彼の手が重ねられる。触れることはやはり叶わず、熱も何も感じない。それでもこの瞬間、新たに結ばれた『契約』はマルスの胸に確かな温かさをもたらした。

「⋯⋯おれは何人目の『エンゲージ』なんだかなあ、この浮気者」
「酷いなあ。これは正真正銘、きみが最初で最後だよ」
「最後、ねえ……。相変わらず空手形の発行がお得意なようで」

 お互いに軽口を叩き合いながら、触れられないまま更に離れた。浮遊するマルスと立ち尽くすチェイニーの距離は、夕暮れに伸びる影のように、徐々に長くなっていく。
 次に会えるのはいつだろうと考えて、自然とそう考えられる自分にマルスは顔を綻ばせた。二度と会えない予感を必死に押し殺す必要は、もうないのだ。

 遠のいていく彼の指には、いつの間にかマルスが見慣れた指輪があった。チェイニーは己の指に嵌められたそれをじっと見つめ、それからゆっくりと持ち上げた手を口元に運ぶ。
 猫のような赤い目が、唇に添えられた指輪越しに、マルスを見つめた。
 その目に射抜かれたと思った次の瞬間に、マルスの意識は指輪の中に溶けていった。

 指輪の中は静謐で満ちていた。その中央で眠るマルスは知っている。
 かつてこの中に淀んでいた悠久の孤独も、永遠に近い静寂も、もうここにはないことを。

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