死にたい統一王と生きていてほしい元生徒の話


オフィーリアってる先生は友達の話に触発されて描いたものなんですが(なので三次創作)、ちょっと楽しくなりすぎて無駄な流血等をさせてしまったので三次創作って言うの申し訳なくなってきたな…ってことで、うちの先生の場合はこうかなー的な小話を書きました。
とか言いながら、今まで書いたどの話の先生とも繋がっていません。銀雪ルートで自分が人間じゃないと知って苦しむ先生、というお題を自分なりに噛み砕いた結果生まれたこの話だけの先生です。絵でリンハルトくんを勝手に添えたので、こっちでも添えておきました。

絵だとベレト先生でしたが、文ならベレス先生でもいけるかも。って思ったけど彼って書いちゃってたのでベレト先生です。


 真面目で勤勉、神秘的な相貌の統一王は、元傭兵上がりの教師という異様過ぎる出自にもかかわらず、女神の生き写しと讃えられ、多くの信徒から現人神とばかりに崇められている。貴族にも平民にも分け隔てなく向けられる穏やかな微笑、柔らかに紡がれる慈愛に満ちた静かな言葉。その姿を一目見ようと、その声を一聴しようとする信徒の数は日に日に増していき、戦争が終結してからというもの、王城を兼ねるガルグ=マク大修道院では礼拝の足音が途絶えたことはない。
 環境が人を作るとは、誰の言葉だっただろうか。数多の感嘆、憧憬、崇拝、敬慕の念に撫でられ続けた王は、磨かれて輝きを増す宝石のように、その浮世離れした印象を強めていった。この王がかつては無表情で敵を斬り殺す無慈悲な振る舞い故に、戦場で灰色の悪魔と呼ばれ恐れられたのだと言っても、もはや信じない者の方が多いだろう。
 祝祭日である今日は、露台に出る統一王の姿を信徒たちが見られる絶好の機会だった。王が露台に立つのは、忙しい朝の間のたった数分。話す内容も定型句の言祝ぎだ。ただそれだけのために、ガルグ=マクの近辺の街のみならず、ファーガスやレスター、アドラステアまでも含めたフォドラ全土から信徒が集まる。あまりに濃厚な人の気配にうんざりしてしまうリンハルトは、祝祭日の朝は必ず自室に引きこもると決めていた。
 士官学校が再開するまでの間という期限付きで学生時代に使っていた寮の一室を手に入れたリンハルトは、戦争終結後からここガルグ=マク大修道院に居座っている。朝寝に昼寝、紋章の研究、釣り。好きなことだけを好きなだけする悠々自適な生活に浸って数年、最初は咎めるような視線が方々から向けられたものだが、最近では諦められたのかそういうこともなくなった。
 王の言祝ぎに興奮する信徒たちがすっかり捌けた正午過ぎ、自室で惰眠を貪っていたリンハルトは扉が叩かれる音で目を覚ました。扉の外に立つ気配と規則的なその音で来訪者が誰であるかを悟ったリンハルトは、寝台の上で身を起こす。
「どうぞ。鍵、開いてます」
 寝起きのわりにはしっかりとした声でリンハルトが応答すると、即座に開けられた扉の向こうには思った通り、沈痛な面持ちのセテスが立っていた。セテスは怠惰を具現化したような部屋の惨状すら意に介さず、寝台の上にいるリンハルトに縋るような目を向ける。
「……陛下の姿が、どこにも」
「わかりました」
 セテスの暗い声はひどく言葉足らずだが、リンハルトにはそれで十分だった。了承して頷いたリンハルトは寝台から降り、軽く身支度を整えて外に向かう。すれ違いざまセテスが小さな声で「すまない、頼む」と言って目を伏せたが、それには敢えて何も答えなかった。
 好きなことだけをしてのんびりと静かな余生を過ごすと心に決めているリンハルトだが、率先して請け負う仕事が一つだけある。
 それがこの、時折行方知れずになってしまう統一王の捜索だ。

 最初に統一王が姿をくらました時、教団の内部はひっくり返るような大騒動だったという。騎士団総出で捜索隊が組まれ、暗部までもが情報統制に駆り出された。秘密裏に、しかし大々的に敷いた捜索網も虚しく、半日経っても統一王は見つからない。執務室で芳しくない報告を受けたセテスが珍しく焦燥を露わにしていたのと同時刻、そんな騒動を露とも知らないリンハルトは偶然にも、渦中の統一王その人と意外な場所で遭遇していた。
 封じられた森の程近くに、木漏れ日が差し込む小さな泉がある。常緑の木々に囲まれているため一見しただけでは森の一部にしか見えないが、一歩踏み込むと柔らかな草地と清涼な空気に満ちた空間が広がっているのだ。泉の水色は濃いものの、天上から差し込む陽を受けてきらきら輝く水面は掛け値なしに美しい。忌み地である森の近くということで常に人気はなく、リンハルトは誰にも邪魔をされたくない気分の時にここを訪れることが多かった。水辺では危険性を鑑みて昼寝を避ける傾向にあるリンハルトだが、水際から十分に離れた木の下で水面を遠目に眺めながら眠るのが、ここでの密かな楽しみだった。
 その日、リンハルトはこの場所で偶然、統一王に出会った。誰もいないと思っている場所に先客がいれば誰だって驚く。それが滅多に修道院から出ることはない王であれば尚更だ。加えて彼が立つ場所が岸辺ではなく泉の中とくれば、驚愕という言葉ですら生温い。
「何してるんですか、陛下。その泉、底無しで危ないって知ってますよね」
 ドクドクと不穏な鼓動を刻み始めた心臓を抑えつけて、リンハルトは白い背中に声を掛けた。美しい仕立ての祭服の裾が濡れるのも構わずに、脹脛まで水に浸かっていた王がゆっくりと振り返る。差し込む陽に照らされた彼は、まるで舞台に立つ役者のようだった。
「……ああ、寝ぼけていた。すまない、リンハルト。助かったよ」
 そう言って向けられた彼の笑顔が、リンハルトの脳裏に焼き付いている。教師だった頃に見せてくれたぎこちないが柔らかなものとも、戦争中に皆を鼓舞した精悍なものとも違う。彫刻家が石と命を削り、丹精を込めて生み出した彫像のように美しい、完璧といっても差し支えのないようなその笑みは、空恐ろしさを感じる程に作り物めいている。
 統一王となったかつての恩師に、元教え子というだけのリンハルトが個人的に会えなくなって久しい。たった数年まともに見ない間にこの人はこんな顔をするようになってしまったのかと、リンハルトは愕然とした。
 久し振りに顔を合わせたというのに碌な会話もなく、二人は連れ立って大修道院へと戻ることになった。戻って早々、統一王を拐かした下手人と勘違いされたリンハルトが騎士団に取り押さえられる一悶着があったが、駆けつけたセテスによって事態は速やかに収拾した。そのままなし崩しにセテスの執務室に連れ込まれたリンハルトは、統一王の片腕から直々にこの騒動に至った経緯の説明と謝罪を受け、そして王についてどんな些細なことでも構わない、洗いざらい説明するようにと求められた。
「死にたがっているように見えました」
 執務室にはリンハルトとセテスの二人きり。会話が傍聴される心配はないと事前に聞いている。そのため、リンハルトはいつも以上に言葉を選ばず端的に告げた。その物言いを咎めるでもなく、セテスは静かに項垂れた。
「……そうか」
 セテスはきっと、王が姿をくらました時から理由を薄々は察していたのだろう。王の片腕として最も近しい距離にいるセテスが、リンハルトが一目見て気づいた違和感に気づかないはずもない。
 自分の見たもの、感じたものを、リンハルトは正直に全て話した。といっても、深く言葉を交わした訳ではないので語れることは多くない。統一王は誰もいない泉に足を浸けており、そのまま前に踏み出そうとしているように見えた。表情はずっと貼り付けたような笑顔で、感情らしいものは何一つ窺えなかった。元々口数が多い人ではないが、それにしたって寡黙で声に生気がなかった。リンハルトが「この人は死にたがっている」と結論づけるに至った要因を細分化して言語化するだけで、それ以上の情報など何もない。
 リンハルトから話を聞き終えたセテスは難しい顔で考え込んでいたが、やがて大きな溜息を吐き出して「このことは内密に頼む」と低い声で言った。言われなくてもわかっている。そう頷いたリンハルトに、セテスは一つ取引を持ち掛けた。
「ガルグ=マクにおける君の生活を生涯保障する。その代わりに、もし今日と同じように陛下が行方知れずになった時、捜して連れ戻す任を引き受けてはくれないだろうか」
 リンハルトは労働なんて真っ平御免である。先の戦争で一生分働いたと自負しているので、誰に何と言われようが仕事をするつもりはない。だがセテスのその依頼を、リンハルトは二つ返事で引き受けた。
 偶然に統一王を見つけたこの日から、死にたがりの手を捕まえて引き戻すのは、リンハルトの役目になったのだ。

 いなくなってしまった統一王を捜す仕事は、多い時で年に二回ほど。そうそう発生するわけではなく、これまでにリンハルトが実際『仕事』をした回数も片手で数えられる程度に収まっている。
 前触れもなく姿をくらます王は、決まってリンハルトのお気に入りの場所で見つかる。彼が教師だった頃、あるいは指揮官だった頃に、リンハルトが「貴方にだけ、特別に」と教えたとっておきの昼寝場所で、王はいつだって永遠の眠りに焦がれて夢をみていた。決定的な自傷を目の当たりにしたことはないが、見つけた時に由来がわからない軽傷を負っていたり、気を失っていたりすることはある。自らの希死念慮がリンハルトに知られていることを王もまた知っているようで、誤魔化したり隠したりするつもりはなさそうだった。これが憶測に過ぎないのは、リンハルトは一度たりとも王の真意を問い質すような真似はしなかったからである。
 どうして死にたいのか、何か力になれることはないか。浮かぶこれらの問いかけのことごとくを飲み下して、リンハルトは見つけた王に傷があれば白魔法で勝手に癒し、気を失っていれば目を覚ますまで傍で見守った。彼の反応はというと、リンハルト以上に言葉少なだ。死と触れ合う甘美な夢から連れ戻される瞬間、彼は絶望に目を曇らせながら定型句のように「すまない、世話をかける」と言ってリンハルトを労う。それ以外の言葉は一つもなかった。「おはようございます」「危ないですよ」「怪我してますね」――こちらを見る瞳に浮かぶ絶望からは目を逸らし、リンハルトは見つけた王に短い言葉をいくつか投げるが、返ってくるのはあの作り物のように美しく完璧な微笑のみである。

 セテスによれば、今日の王は祝祭日の式典が終わったすぐ後に姿をくらましてしまったという。式典が終わったのは正午の二刻ほど前で、今は正午を二刻過ぎている。四刻もあれば王の足ならどこにだって行けるだろうが、今まで彼がリンハルトお気に入りの昼寝場所以外で見つかったことはない。その法則を信じて、あるいは縋って、リンハルトは心当たりのある場所に向かった。怠惰な生活ですっかり鈍ってしまったその足取りはのんびりとしたものだったが、空振りが三度目ともなるとリンハルトも内心焦り出していた。こんなにも見つからなかったことは、今までにないのだ。こうしている間に、もし手遅れになってしまったら。そんな悪い予感が拭えない。
 あまりにも不吉な想像を振り払おうとしたその瞬間、抗うリンハルトの脳裏にある光景が過った。天啓でも受けたかのような衝撃が脳天から足裏までを貫いて、気づけばリンハルトは駆け出していた。向かう先は忌まれし森の程近く。リンハルトが初めて王の昏い願いに触れた、あの底無しの泉である。

 果たして、王はそこにいた。
 午後の柔らかな陽光を浴びてきらきらと輝く水面に浮かぶ人影は、遠目に見ると水死体そのものだった。
 リンハルトは口から漏れ出そうになった悲鳴を噛み殺し、躊躇いなく泉に飛び込んだ。底無しと言われてはいるが、この泉の殆どはせいぜい成人男性の腰までくらいの浅瀬である。しかしところどころに水中洞窟に繋がる淵があり、しかもその淵は濃い水色に遮られて人の目にはわからない。泉の下に広がる洞窟は深く広く、その淵に吸い込まれてしまったら最後、二度と浮かび上がっては来られない。リンハルトがこの場所で王を見つけたあの日、彼が死にたがっていると確信したのはこれが大きな要因だ。この泉の恐ろしさを、彼は知っている。彼に一見無害なこの泉の真実を語って聞かせたのは、学生の頃のリンハルトだった。安全な木漏れ日の下に二人並んでまどろみながら交わしたくだらない話の中で、目の前の泉についての蘊蓄を語った記憶が確かにある。
 静かな水面を荒らしながら、リンハルトはたゆたう王の身体に手を伸ばした。いつもの白を基調とした祭服ではなく、傭兵の時分から愛用していたという灰色の長衣を纏った彼は、腹の上で血まみれの手を緩く組み、静かに目を閉じていた。その口の端から血が細く流れ落ちた跡があり、白い襯衣の襟をまだらに赤く染め上げている。
 服毒したのだと、一目でわかった。彼の組まれた手の中を視線で探れば、指の隙間から覗く小瓶らしきものが見つかる。中身はきっと、無味無臭の毒物だったのだろうと、リンハルトは直感した。彼が教師だった頃、教え子の一人に命を狙われていることを何故か嬉しげに話してくれたことがある。物騒極まりないその教え子が検討していたというのが、確か毒物による暗殺だったはずだ。
 掴んだ肩を抱き寄せて、水面に揺らぐその身体を引き留める。泉の底に開いた淵は時折何の前触れもなく渦を作り、水面にある何もかもを吸い込んでしまう。それを考えるとすぐさま陸に上がるべきだったが、リンハルトはそうしなかった。自分も胸まで冷たい水に浸かり、抱き留めた王の身体にそのまま解毒の白魔法を掛けた。
 呼吸は止まっている。外傷はない。手や服の血は吐血によるものだろう。出血の量からして、相当苦しんだに違いない。陸地で服毒してから入水したのだろうか。不安定な水面で揺られながら吐血したのだとすればもっと口元が汚れそうだが、綺麗なものだ。襯衣の襟の血の染みも、水に浸かっているにもかかわらず流されていないのだから、恐らくこの推察は正しい。
 服毒後一頻り苦しんで、だが恐らくその毒は王を殺すに至らなかった。最後の一歩を踏み出すために、泉に身を投げたのだろう。祈るように組まれた血まみれの手は、本当に祈っていたはずだ。毒に蝕まれるよりよほど辛いこの生に、幕が下ろされる瞬間を。

「……先生」
 久しく口にしていなかった呼び名を声にした途端、リンハルトがずっと堪えていた激情が堰を切ったように溢れ出した。
 緩く支えるだけだった身体をきつく掻き抱いて、髪や顔が濡れるのも厭わず冷たい額に頬を寄せる。
「どうしたら、生きたいと思ってくれますか。どうしたら、また笑ってくれますか」
 尋ねる声は震え、応える声はない。
「死にたい貴方をこうして引き留める僕を、憎んでますか。恨んでますか」
 まだ戻らない呼吸を間近に感じながら、リンハルトは掠れた声で懺悔する。
 先の戦争の最中、戦場で多くの重傷者を診てきたリンハルトは、助かるか助からないかの境目を今でもはっきりと認識することができる。通常なら、リンハルトは今腕の中にいる彼を『助からない』と断じただろう。だが何かと逸脱しているこの人に、定石は当てはまらないことの方が圧倒的に多い。その胸に埋められているという女神の心臓がそうさせるのか、彼は常人であればとっくに事切れているような傷を負いながら、平気な顔をして歩いていたことすらあった。今もそうだ。恐らく致死量以上の毒を飲んだ彼の身体は、それでも死を拒絶している。もう動かないはずの身体に施した解毒の魔法が、まるで貪られてでもいるかのように沁みていく様が、リンハルトには手に取るようにわかった。
 彼を殺したがって真剣に暗殺計画を練っていた、女帝の従者はもういない。今の彼にとっては願ってもない救いの手になっただろうに、その黒き従者は他ならぬ彼自身の手で、剣の錆となって戦場に散った。従者の屍のその先で、彼を亡き者にするため魔斧の切っ先を向けた女帝もまた同様に、彼の手により命を絶たれた。狂った白き眷属の凶牙ですら、彼を殺すには足りなかった。彼が自ら呷った毒もまた、同様だった。
 今この世界にあるのは、女神の再誕に歓喜し、新たなる王を崇め、永劫の統治と平和を祈る声だけだ。彼を殺そうとするものは、どこにもいない。彼に死ぬことを、自由を許すものは、この世のどこにも――彼自身の中にすらいないのだ。
 リンハルトも、そんな愚かな大衆の一人に過ぎなかった。自分だけでも、と思ったことはある。彼の孤独に寄り添って、死に向かうその背中をただ見送ってやれたなら、もしかしたら彼は救われてくれるかもしれないと、そう夢想したことだってある。だが、考えるだけでも胸がぎりぎりと締め付けられるようなそれを、どうしたら実行に移せたというのだろう。

「先生、辛いんですよね。苦しいんですよね。すみません、何も力になれなくて。それなのに、僕はどうしても……貴方を、喪いたくないんです。生きていてほしいんです、僕は、貴方に」

 先の魔法が確かに彼の身体から毒を残らず消し去ったことを感じ取り、リンハルトは抱きしめた彼に重ねて治癒の魔法をかける。程なくして、か細く鳴いた喉は微かだが確かな呼吸を取り戻した。そのことにどうしようもなく安堵して胸を撫で下ろした自分を酷く嫌悪しながら、リンハルトは顔を上げる。
 接触は彼の身体が流されない程度の最低限、この距離をずっと保っていた。抱きしめて縋りつくような真似はしていない。そう自分に言い聞かせながら、リンハルトは徐々に死の淵から浮かび上がってくる彼の呼吸を見ていた。ぴくりと震えた瞼がゆっくりと持ち上がるのを、呼気を取り戻した唇が色づいていくのを、まっすぐにただ見つめていた。
 平常心を装いきれていない、酷い顔をしている自覚はあった。それでもリンハルトは気丈にも口元に笑みを浮かべて、瞼の下から現れた女神の色を覗き込むと、いつもと同じように声を掛けた。
「……おはようございます、陛下」
 茫洋とした王の目が焦点を取り戻しながら絶望に染まっていく様を、リンハルトが逃げることなく見届けたのは、これが初めてのことだった。

※ここからは流れを遮るので削ったけど内容は気に入ってたので未練がましく残してある没部分です。


 ふと、リンハルトの脳裏に遠い記憶が蘇った。戦争が始まる前の平穏な時代、黒鷲の学級が級長のエーデルガルトとその従者であるヒューベルトに率いられ、まとまらないながらも賑やかな日々を過ごしていた頃のことだ。
 いついかなる時も主を第一とする黒き従者は、得体のしれない担任教師への警戒を隠そうとしていなかった。教師の方はといえば涼しい顔をして教え子から向けられる敵意や殺意を受け流しており、まるで意に介していない。手応えのなさに一番辟易していたのは当のヒューベルトだろうが、傍から見ていても教師の無反応ぶりは空恐ろしいほどだ。だがリンハルトはただ見ているだけでは決してわからない、もっと複雑怪奇な彼の本心を本人に聞かされて知っている。

「ヒューベルトは俺を暗殺したいそうだ」
 その前にどんな話をしていたかは朧気だが、それが脈絡のない言葉だったことは覚えている。釣りをする教師の横で木箱にもたれてまどろみながら、リンハルトはそれを聞いた。麗らかな午後の陽射しに似合わない物騒すぎる単語に驚いて、眠気はどこかに吹き飛んでしまった。
 明らかに戸惑っているリンハルトに気づいているだろうに、彼は釣竿を振りながら何でもないような顔をして話を続ける。
「骨が折れそうだと言われた」
「……先生、何だか嬉しそうですね」
「嬉しいよ。ヒューベルトは優秀だ。彼の手を焼かせているうちは、自分はまだ大丈夫だと思える」
 何とも独特な感性だ。リンハルトにはさっぱり理解できないが、強者に認められて嬉しいというような感覚なのだろうか。
 ヒューベルトがこの教師に向ける敵意や殺意は、リンハルトも知るところだ。だがこの人は教え子の敵意や殺意を、まるでないものとして扱っているように見えていた。そのある意味つれない態度の教師と、健気にも主のために警戒を怠らず一顧だにされない殺意を向け続けるヒューベルトを並べて、リンハルトはまるで片思いが題材の喜劇だと、そんな暢気な感想を抱いたことさえある。
 それなのにたった今開帳された教師の胸の内は、リンハルトの想像の埒外にある感情が彼の中に渦巻いていることを物語る。知らなかった。暇さえあれば研究と称して陰ひなたに彼の後をついて回っているリンハルトは、それなりにこの教師のことを理解しているつもりでいたのだが、そう自負するにはまだまだ早かったらしい。
「寝込みを襲うのは難しいから、無味無臭の毒物での暗殺を考えているそうだ。ヒューベルトがどう仕込むのか楽しみだな」
「いや、流石に実行するまではいかないんじゃないですか?」
「そうだな。他に被害がいかないなら、実際試してくれていいんだが」
 悪趣味な冗談だと思いたいが、リンハルトは彼が本心からそう思っていることを察してしまった。命を付け狙われることを、この教師は明らかに楽しんでいる。そういえば教師になる前は傭兵だったのだ。ひりつく戦場で命のやり取りをすることが、ある種の快楽として染みついているのかもしれない。そうだとしたら、やはりリンハルトにはまるで理解できない感性である。
「……あの、確認なんですけど。先生、死にたいわけじゃないですよね?」
「もちろん。死ぬつもりはさらさらないよ」
「でもその言い方だと、ヒューベルトに暗殺されたがってるみたいに聞こえますよ」
「そういうわけじゃないんだが……そうだな。もしヒューベルトが本気で俺を殺そうとして、それで自分が死んだとしたら、納得はできるとおもう」
「……納得?」
 教師は釣り糸の沈む水面に目をやったまま、ただ微笑んで頷いた。
 リンハルトとしてはまったく理解も納得もできなかったが、これ以上会話を続けたところでそれは変わらないだろう。腑に落ちる答えは返ってこないと知りながら、それでもリンハルトは会話を繋ぐための言葉を探す。だが珍しくリンハルトが迷っているうちに、釣竿の先端が傍目にわかるほど激しく揺れた。大物のあたりの気配に沸き立つ雰囲気に飲み込まれて、結局この話はそこで途切れた。

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