敵対黒鷲おさななじみ


!注意!
・敵対リンカス
・リンハルトの死亡描写
・冷徹な先生
・うっすらレトリン


 将を失って散り散りに去っていく祈祷兵達を、カスパルは追わなかった。リンハルトが率いていた兵団は見るからに戦闘に不向きな者たちで構成されており、逃げ足すらも鈍足だ。数だけは多いため何人かは取り逃がしてしまうだろうが、それでもカスパルの俊足なら半数以上を仕留めることは容易に思える。だがカスパルは腰を抜かして這いずっていく最後の一人が逃げ切るまで、その背中を見送るだけだった。
 人の気配が完全に消えたところで、カスパルは腕の中にいるリンハルトを見下ろした。およそ5年ぶりに見る幼馴染みの顔つきはすっかり大人の男のものになっていたが、こうして目を閉じていると共にあった幼い頃の面影が色濃い。つい先程まで死闘の中にいたとは思えないほど、その顔は安らかだった。長い睫毛を伏せ、赤く薄い唇をわずかに開いた、無防備な顔。ただ眠っているようにしか見えないのに、その唇に呼気はなく、瞼は二度と開かない。彼はもう死んでいる。彼を殺したカスパルは、それを誰よりも知っている。

 リンハルトは戦うことも、武器も、血も、人の死も、戦場にまつわるあらゆるものを嫌っていた。士官学校時代も実戦を露骨に嫌がって、同じ戦場に立つカスパルは「君を盾にしていいかな」と真顔で聞かれたことが何度もある。あれは恐らく、気を紛らわすための冗談ではなく本気だった。
 カスパルが青獅子の学級に移ってからは肩を並べて戦う機会などなかったが、校内で何度か見かけた黒鷲の学級の演習では、いつも後方支援役をしているようだった。訓練で負ったちょっとした傷を治してもらった時、カスパルは彼の白魔法の上達ぶりに驚いたものだ。何の痛みも違和感もなく、まるで最初からなかったかのように傷が消えた。カスパルが凄い凄いと褒めると、彼は困ったように「戦いのために上達したんじゃなかったら、誇れたのかもね」と言って小さく笑っていた。
 そんなリンハルトが戦場に出てくるなんて、カスパルは微塵も考えていなかった。離反したカスパルは現在の帝国の内情など知る由もなかったが、リンハルトの資質が後方支援に適していること、彼が内務卿の一人息子であることを考えれば、父親と共にアンヴァルの宮城に詰めている方が理に適っている。その彼の姿をメリセウス要塞で認めた瞬間から、どこか現実味がない。頭はむしろ冴え渡っているように思う。雑念の一つも浮かばず、寒々しいまでにすっきりとしている。見違えるほど大人になった幼馴染みを見て真っ先に「そうか。オレがあいつを殺さなきゃならねえんだな」と理解してしまえるほど、冷徹なまでに冷静だった。
 それはリンハルトも同じようだった。大斧を携えたカスパルと対峙した彼は、カスパルと敵同士になったことをうっすらと微笑みながら嘆いてみせた。カスパルの記憶より随分と低く落ち着いた声が、記憶と違わぬ軽口を叩くのがおかしかった。
「カスパル、知ってるかな? 僕らが喧嘩するのは、これが初めてさ」
 親し気な軽口を叩いたのと同じ声がそう言った時、リンハルトの顔から微笑みは名残もなく消えていた。この期に及んでもどこか夢の中にいるような感覚が拭いきれなかったカスパルだが、リンハルトのその声に、その表情に、一気に現実へと引き戻されたような気がした。
 喧嘩。そうか、こいつとはしたことがなかったのか。これが最初で、最後の、喧嘩、か。
 脳裏に浮かんだ言葉や感情は色々あったが、全てを掴むことはできなかった。何かが口からこぼれた気がしたが、それが何だったのかすらカスパルにはわからない。最後に自分が目の前の幼馴染みに何を伝えたいのか、何を言ってしまったのか、何もかもがあやふやだった。

「……じゃあ、始めようか」
 幼馴染みとしての最後の会話を終えた後、リンハルトはわざわざそう宣言してから白い手のひらをカスパルに向けた。その時のカスパルは隙だらけで、不意打ちで魔法を叩き込むことだって出来たはずなのに、そうはしなかった。それが何を意味していたのか、もう本人に聞くことはできない。だが少なくとも侮られていたわけではないとカスパルは思っている。初撃で飛んできた風魔法に、魔法への造詣が乏しいカスパルにすら感じ取れるほどの確かな殺意がこめられていたのが、その根拠だ。
 風圧を感じるより早く咄嗟に身を躱したが、少し掠った肩先の鎧はチーズのように切り取られ、その下の肉まで容赦なく抉り取っていった。音もなく弾けて散る自分の鮮血を視界の端に捉えたカスパルは、痛みよりも先に悔しさを感じた。血が苦手なあいつに、最後くらいは血を見せないでやろうと、そう思ったのに、と。
 甘いと言われても仕方のないカスパルの思考を叱責するかのように、リンハルトの攻撃は容赦がなかった。次々に襲い掛かる巨大な風の刃を寸でのところで避けながら、カスパルはじっと機を窺う。どんなに高位の魔道士であっても、ずっと魔法を放ち続けることはできない。息を止め続けてはいられないのと同じで、魔道士は『息継ぎ』をする瞬間が必ずある。相手から決して目を逸らさず、回避に専念して耐え続け、息継ぎをする瞬間を狙って間合いを詰め、一撃で仕留める。この魔道士との戦い方をカスパルに叩き込んだのは元担任であり現指揮官でもあるベレトだが、生来喧嘩っ早く戦場においても先走りがちなカスパルがこの戦法をすんなりと習得できたのは理由がある。平和な士官学校時代に、似たような指南を受けていたからだ。自分より上背の高い相手との喧嘩に勝つための策として。今目の前で、自分を殺すために魔法を放ち続けているリンハルトが、かつて教えてくれたのだ。
 こちらに向けられる白い手のひらに集まる光がふっと弱まったのを見て、カスパルは矢よりも早く駆け出した。嵐のように渦巻く風圧に逆らって、掠っただけで命まで刈り取られる風をぎりぎりで掻い潜る。そうしてカスパルがリンハルトの目の前に躍り出たところで、決着はもうついていた。あとは斧で一薙ぎ、それで終わる。
 決して避けられない間合いで、最後にカスパルとリンハルトの視線がかち合った。見間違いでないのなら、リンハルトは柔らかく微笑んでいた。どこか眩しげに目を細めて、わずかに口角を上げるその顔に、言い知れない懐かしさを感じる。まだ共にいられた士官学校時代、リンハルトはカスパルを褒める時に決まってこんな顔をしていた。

 そのまま首を刎ね飛ばすことも、上半身と下半身を分断させることもできた。その方が確実で早かったが、カスパルは手にした斧をその場に放り投げると、リンハルトの背後に回り込んで白い首に腕を回した。随分伸びたと思った自分の背が、昔から長身だった幼馴染みに届かなかったことを、その時に知った。首を絞め上げるより先にリンハルトの身体からふっと力が抜けて、自分の方に傾いたのは錯覚だったのだろうか。脳裏で幼い声が「眠い……カスパル、後はよろしく……」と響いて、寝落ちしたリンハルトが無防備に身体を預けてきた遠い記憶と今が重なる。17歳の幸せそうに微睡む顔ははっきりと思い出せるのに、今腕の中にいるリンハルトがどういう表情をしているのかは見えない。わからない。
 込み上げた感情が胸を詰まらせるその前に、カスパルは腕に力を込めた。リンハルトはもう抵抗しなかった。鈍い音を響かせて呆気なく首の骨が折れ、カスパルの腕に抱かれるようにして、リンハルトは息絶えた。一瞬のことで、殆ど苦しまなかっただろう。血だって一滴も流れていない。そのことにカスパルは安堵した。助言通りに背の高い相手をやり込めたのを報告しようとして、その瞬間に腕の中から急速に失われていく温度に気づく。
「……リンハルト?」
 遠い昔、呆れた顔をしながらも的確な助言をくれた幼馴染みが呼び掛けに応えてくれることは、二度とない。

 そうして、どのくらい時間が経っただろうか。数秒かもしれないし、数刻かもしれない。すっかり冷たくなったリンハルトを抱えたまま、カスパルはその場に立ち尽くしていた。後ろに人の気配を感じたが、振り返ることすらしない。気配の正体は、見るまでもなくわかっている。
「カスパル」
 名を呼ばれてようやく、カスパルはゆっくりと振り向いた。黒い外套を返り血で更にどす黒く染め上げて、鈍く金色に輝く奇妙な形の剣を佩いた男が、そこに立っている。
「ここは制圧した。次に行こう」
「……先生、オレ、こいつを連れて行かねえと」
「それはできない」
 抱き上げた骸を見つめて呟くカスパルに、男――ベレトは眉一つ動かさずにぴしゃりと言った。
「彼は帝国軍の将だ。遺骸を持ち去れば、帝国に対する無用な挑発行為になり得る」
「それは……っ、けど、オレは別に、こいつに酷いことなんて……」
「ああ、君はしないだろう。だが王国軍には帝国に強い恨みを持つものが少なくない。憎悪が人を狂わせるのは、知っているな」
 ベレトの声はいつも通りに淡々と響いた。余計な感情が一切含まれないその声は、カスパルに対して説得や叱責をするでもなく、ただ事実だけを羅列する。だからこそだろうか、その言葉は頭の一番奥にまでじわりと沁みて、消せない痕を残していく。
 わかっている。カスパルの知る限りでは、ベレトが間違ったことを言った試しなど一度もない。それにリンハルトを連れ帰ったところで得られるものなど何もないことは、カスパル自身誰に言われずとも承知している。もしそんなことをすれば、将の遺骸を辱めるのが王国のやり方だと、ここぞとばかりに帝国は煽動するだろう。リンハルトが持つ内務卿の嫡子という肩書は、帝国軍にとってそれほどに価値が高いのだ。その死を最大限に利用しないはずがない。王国の方にも問題はある。カスパルはただリンハルトを日当たりが良い昼寝に適した場所で眠らせてやりたいだけなのだが、帝国に対する王国の憎悪は、それをきっと許さない。カスパルが丹精を込めて墓を作ったとしても、そこは程なく荒らされて、掘り返されたリンハルトの亡骸はカスパルの知らないところで徹底的に辱められることだろう。帝国の将だった、ただそれだけの理由で帝国に対する憎しみ全てをぶつけられるのだ。反論も反撃もできない、物言わぬ骸にそうしたところで、何の意味もないというのに。
「カスパル。彼を放してやってくれ」
 全部わかっているのに、どうしても未練がましくリンハルトを手放せないカスパルに、ベレトの静かな声が再度向けられる。何か応えたいと思うのに、視線はリンハルトの閉じた瞼を見つめたまま動かせず、口は無意味に震えるだけで言葉どころか息も吐けない。見なくともわかるベレトの怜悧な視線が、刺すように痛い。

 重苦しい沈黙が満ちた。戦場の喧騒さえどこか遠く、カスパルが感じられるのは手の中にあるリンハルトの冷たい重みだけだ。
「君がどうしてもリンハルトを手放せないのなら、帝国以外に向かう場合は見逃そう」
 静寂を破ったのはやはりベレトの声で、カスパルはそれを聞くなり弾かれたように顔を上げた。内容に反応したわけではなく、ベレトの口から出たリンハルトの名前に、何を考えるより先に身体が動いたのだ。
 ベレトはいつもの無表情のまま、カスパルをまっすぐに見ていた。先程まで俯いていた時にはあんなにも痛く感じた視線は、いざ向き合ってみると柔らかくはないが鋭くもない。
「だが君たちが帝国へ向かうというなら、この場で殺す。こちらの内情を知り過ぎていて戦闘能力が高い君は、王国軍の脅威になり得る。ここで自分が始末をつける」
 元生徒であり、現部下でもあるカスパルに明確な殺意を向ける時ですら、ベレトの無表情は崩れなかった。声も淡々と、静かにただ響いた。
「カスパル。君がリンハルトと共に帰れる場所は、どこにもない。それでも行きたいなら止めない。……君は、どうしたい?」
「……オレは……」
 無情な現実を突きつけられて、カスパルは力なく首を振った。その動作に意味などないことをベレトは正しく理解しているようで、剣の柄に手をかけることもなく、黙ってカスパルを待っている。
 再び視線を落としたカスパルは、リンハルトの顔をじっと見つめた。寝顔のように安らかな死に顔を網膜に焼き付けて、ぎゅっと強く目を瞑る。瞼の裏側の暗闇の中に思い描く幼馴染みは、夜明けの空のような穏やかな青色を湛えた双眸を柔らかく細め、白い髪紐で括られた長い襟足を尻尾のようにたなびかせていた。目を閉じたまま、カスパルはリンハルトを抱える腕に力を込めた。今度は殺すためではなく、きちんと別れを告げるために。

 リンハルトの亡骸をその場にそっと横たえて、傍らにしゃがみこんだカスパルは彼の白い額を撫でた。仰向けに寝かせようとすると後頭部で括られた髪がどうにも心地悪そうだったので、髪紐はほどいた。幼い頃にカスパルが眠るリンハルトに悪戯心で結びつけた白い髪紐がこんな形で手元に返ってくるなんて、誰が想像できただろうか。
 静かに近づいてきたベレトが、リンハルトを挟んでカスパルと向かい合う位置で膝をつく。彼はカスパルの肩口の傷に視線をやると、先程までより幾分か柔らかな口調で尋ねた。
「その傷は、リンハルトに?」
「……おう。初撃を避けきれなくてさ。後は全部、ちゃんと避けたぜ」
「そうか」
 ベレトは小さく頷き、カスパルに倣うようにして視線を落としてリンハルトを見つめた。
「戦いが苦手なのに、よくがんばったな」
 生徒を褒める時のような優しい声音でそう言って冷たい頬を撫でるベレトに、カスパルは今度こそ目を丸くする。ベレトが他の学級の、言ってしまえばほぼ無関係なリンハルトの名前を覚えていたことにも驚いたが、まさか戦いが苦手なことまで知っているだなんて思いもよらなかったのだ。
「……先生、よく知ってたな。こいつが、戦うの苦手だって」
「ああ、知ってた。血が気絶するくらい苦手なことも、家を継ぎたくないと思っていることも。甘いものと釣りと、それから何より眠ることが好きだってことも、知っていたよ」
 リンハルトの頬を撫でたベレトの指先が離れる一瞬、名残惜しげに躊躇ったように見えたのは気のせいだったのだろうか。それがたとえ気のせいだったとしてもベレトの言葉が、態度が、リンハルトとの間に浅くはない交流があったことを匂わせていた。
「先生、あんた……」
「リンハルトの手を取るには遅すぎた。一緒にいきたかったのなら、もう少し早く声を掛けるべきだった」
 囁くような小さなその声には、誤魔化しようのない悔恨が滲んでいた。それがカスパルに向けられたものなのか、ベレト自身に向けられたものなのかは判然としない。
 ベレトは祈るように、緩く目を伏せている。手の中の髪紐を固く握りしめると、カスパルは先んじて立ち上がった。放った斧を拾い上げるためだと言い訳しながら、リンハルトとベレトに背を向ける。
「……今更、そんなこと言ったって仕方ねえだろ」
「そうだな。本当に、今更だ」
 カスパルに続いてベレトもゆっくりと立ち上がった。彼もまた、起き上がらないもう一人からは敢えて目を逸らしていた。
「行こうか」
「……おう」
 黒い外套を翻して歩き出したベレトの後を、カスパルが追う。振り返りたい気持ちを口の奥で噛み潰して、前を向く。

 勝ったのにこんなにも嬉しくない喧嘩は、初めてだった。

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