リンカスだとカスなリンハルトを意味するスラングみたいだなと思い続けて、一周回って好きになってきたのでタグはリンカスにしましたが、いつもどおりどっちでもいいです。レトリンもそうですが、リンカスリンだと長いから省略しています。
・12歳のリンカスが、貴族の性教育に振り回されたりされなかったりする話
・官能的ではないがだいぶ直接的な描写がある(リンハルト×指南役のモブ女性)
・リンハルトとカスパルの関係はよくわからない
・おまけ程度にペアエンド後の描写もある(一緒に旅してる)
リンカス初投稿なのでもっとマイルドにしたかったけど、今書いてるやつ火薬庫みたいな話ばっかでどうしようもなかったです。
そろそろ全年齢向けサイト名乗るのやめた方がいいかもしれないと真剣に思い始めました。そんなような話です、ご注意ください。
十二歳の誕生日の朝。二度寝三度寝をした後に服を着替え、髪を梳き、最低限の身支度を整えてすっかり冷めた朝食の席に降りたリンハルトを、にこやかな声が出迎えた。
「おめでとうございます。これで貴方も立派な大人の男性ですよ」
そう言ったのが誰だったのかは覚えていない。母親だったか、古株の執事長だったか、昔乳母を務めてくれていた老婢だったか。確かなのは、もう一節近く宮城から帰ってこない父親ではなかったことだけだ。
その日の晩はつまらなくて面倒な生誕祝いの席が設けられた。顔も名前も記憶にない、見知らぬ招待客たちから口々に送られる祝いの言葉を半分寝ながらやり過ごし、辛うじて主役の義務を果たし終えたリンハルトは心身ともに疲れ切っていた。一刻も早く自室に戻り、大好きな本の世界に没頭したい。他の悪いことなんて、何一つ考えずに済むように。その一心で足早に廊下を歩くリンハルトだったが、自室の扉が見えたところでもっとも古株である老婢の穏やかな声に呼び止められた。
「リンハルト様、明日は大切なお勉強がございます」
「嫌だよ。今晩中に読み終わりたい本があるから、明日の昼は寝ていたいんだ」
「ええ、構いませんとも。どうぞお昼間は、ごゆっくりお休みくださいませ」
目尻の笑み皺を更に深くして、老婢はリンハルトにそう言って微笑んだ。彼女はこの邸宅内ではリンハルトに甘い方で、厳しいことの一つも言わない人物だが、それにしたって先の発言には違和感がある。まるでやる気を見せない嫡男に対する諦観が皮肉を引き出したようでもあるが、彼女の性格を鑑みればあり得ないことだ。
引っ掛かることは多くあったが、疲れ切ったリンハルトの頭はそれ以上思考することを放棄した。しずしずと告げられる就寝の挨拶に無言で応え、自室に戻ったリンハルトは寝台ではなく机に向かい、読みかけの本のページを繰った。そして宣言通り、次の日は朝から夕刻まで眠って過ごした。朝食も昼食も摂らずに睡眠だけを貪って、陽が沈み始めた頃になってようやく大あくびをしながら目覚めたリンハルトは、昨日よりは少しだけ元気になっていた。老婢は『大切なお勉強』のことなど歯牙にもかけていない遅起きの嫡男をにこやかに出迎え、「お顔の血色が良くなりましたね」と優しく声を掛けた。
その日、老婢はいやにリンハルトの世話を焼きたがった。ヘヴリング家代々の気難しい気質をよく理解しているはずの彼女らしからぬ鬱陶しさに、リンハルトが露骨に顔を顰めてもお構いなしだった。湯浴みまで介助するのはさすがにやり過ぎだと抗議したが、彼女はにこにこと微笑むばかりで、結局押し負けたリンハルトは恥ずかしいくらい丁寧に、隅々まで洗われてしまった。
まるで監視でもするかのようにぴったりと張り付いてくる老婢を不気味に思ったが、さすがに自室にまで付いてくることはないだろう。夜が更けてしまえば解放される。そう念じながら執拗な世話焼きを耐え忍び、いよいよ自室に逃げ帰ろうとしたリンハルトを、老婢はやはりにこやかな笑顔で呼び止めた。
「さあ、リンハルト様。まいりましょう」
どこに、とリンハルトが尋ねても、彼女は微笑むだけだった。柔らかな笑みだが、不思議と抗えない迫力があった。彼女の一切引き下がる気のない意思を肌で感じ取り、リンハルトは大人しく従うことにした。彼女はいつになく丁寧な湯浴みでぴかぴかに磨き上げられたリンハルトを連れて、妙に暗い廊下を無言で歩いた。向かう先にあったのは、邸宅の奥の奥にひっそりと存在する、滅多に使われることのない小さな部屋へ繋がる扉だった。
老婢は一声掛けてから扉を開けた。中に誰かがいることは、その時点で察せられた。促されて部屋に入ろうとしたリンハルトだが、薄暗い部屋の中に人影を認めるなり、びくりと全身を跳ねさせて足を止めた。室内に誰かがいることは数秒前にわかっていたが、それがまさか見知らぬ大人の女だとは思わなかったのだ。女は季節外れの薄着に身を包み、狭い室内で唯一の家具である大きな寝台の横に佇んでいた。背筋をピンと伸ばして老婢を出迎える立ち姿は美しいが、その目は薄暗く淀み、何も見えていないようにすら思えた。
女の姿を目にした瞬間、リンハルトは全てを悟った。これから行われることも、これから行わなければならないことも。これこそが老婢が言っていた『大切なお勉強』なのだと、理解してしまった。畏怖で狭まった気道から、言葉の代わりに喘鳴が洩れる。隣に立つ老婢の顔を恐る恐る見上げたリンハルトの視界に、いつもと何ら変わらない、皺だらけの優しい笑みが大写しになる。
「リンハルト様、あちらの方が今宵の師家にございます。くれぐれも失礼のないように、ご指導をよくお聞き下さいませね」
しわがれた声が酷く優しく語り掛けてくるが、固まって動かないリンハルトの背を押すその手の力はいつになく強い。断崖絶壁の淵に立たされた気分で、一歩、また一歩とのろのろ進むリンハルトの足は、明らかに入室を拒んでいる。それなのに遅々としながらも歩みが止まらないのは、背を押す老婢の手のせいだ。
部屋と廊下の境界を完全に越えさせられた瞬間、リンハルトの後ろで無情にも扉が閉まった。崖下に突き落とされたような感覚と共に、心と身体が乖離する。リンハルトは扉の前で立ち止まったまま、ふらふらと誘われるように女に近づいていく自分の背中を、他人事のように見つめていた。
女の年齢はわからない。リンハルトの母親より少し年上のようにも、ずっと年下のようにも見える。女の名前はわからない。彼女は名乗らなかったし、リンハルトも名乗らなかった。
女の指南は無機質だった。
最初はしっかり快楽を教え込もうとしていた女の手は、ある瞬間にその熱を鎮めた。リンハルトの冷え切った手を白く細く長い指先で絡め取り、豊満な乳房の上へと導いた時のことだ。女は怯えきったリンハルトの顔をじっと見ていた。震えるリンハルトにそれ以上乳房を押し付けることはせず、そっと手を離した。
そこからはまるで医学書をなぞるように、余計な熱も感情も快楽も何もない行為が果てるまで続いた。部屋に響くのは寝台の敷布が奏でる衣擦れの音と、今にも泣き出しそうな幼い吐息ばかりだった。
途中でリンハルトが吐きそうになれば、女は何を言われるまでもなく行為を即座に中断した。
リンハルトの身体が意思とはちぐはぐに反応する度に女は「おかしいことではありません」と告げ、その原理や生理について医学に基づいた解説をした。
根気よく長い時間をかけて何とか生殖器同士を繋げ、その胎の最奥で拙い吐精を受け止めながら、女は平坦な口調で「以上がお貴族様のお務めです」と言ってリンハルトを労った。
一連の行為を、リンハルトは扉の前でうずくまって眺めていた。いつだったか暇つぶしに読んだ医学書に載っていた、体外離脱という現象だろうと見当はついている。心、もしくは身体に強い負荷がかかった時、人間は心身の共倒れを防ぐために心と身体を切り離すことがあるという。その際に本来ならばあり得ない、自分自身を俯瞰して客観視する現象が多くの報告で記されている。そんなことをぼんやりと思い出しながら、リンハルトは寝台を降りてのろのろと服を着る自分から目を逸らそうとしたが、それは出来なかった。仕方なく愚鈍な自分を見つめたままリンハルトが考えたのは、この状態は元に戻るのか、という今更で深刻な疑問だった。しかしそれを考えられたのも一瞬のことで、頭に靄がかかったように思考は霞み、静かな諦観と自暴自棄に塗り潰される。どうでもよかった。心の底から、何もかもが。
何も見たくないと望むリンハルトの視界の中で、服を着込んだ女と自分が向かい合って立っている。一切の色が抜け落ちた自分の顔はよく見えたが、それに対峙する女は扉方面に背を向けているため、その表情は窺えない。
「……ご指導、ありがとう、ございました……」
「いいえ、お貴族様。わたくしは至らぬ指南役でございました」
彼女は行為中と同じく淡々とした固い声でそう言って、震える声を絞り出す自分に深々と頭を下げた。それは恐らくリンハルトに向けられた中で唯一の、指南役としてではない、彼女自身の言葉だった。
それからリンハルトがどのようにして自室に戻ったのか定かではない。気付くと夜は明けていて、窓の外には眩しいくらいの青空が広がっていた。寝台には近づけず、机に伏せたまま眠ってしまっていたようだ。身体が酷く冷え切っていた。掛布もなく過ごしたせいかとも思ったが、十分に火で暖められた室内でここまで冷えるのは不自然だ。そこまで考えたところで、おぼろげな記憶が蘇った。昨晩あの部屋を出たリンハルトは、自室へ帰る前に浴室に寄った。浴室には湯浴み用に張った湯がまだ残っていて、すっかり冷水と化したそれを無心で被ったことを思い出す。がちがちと奥歯が震えるのに、水を自身に打ち付ける手を止められなかった。肌を灼く水の冷たさは、身体に沁み込んだ覚えたばかりの感覚よりも、少しはましに思えたから。
(寒い……)
思い出した水の冷たさに身体を震わせながら、リンハルトは収納棚から適当に取り出した衣類に着替え、ふらふらと幽鬼のような足取りで外へ向かった。屋内よりも屋外の方が気温が低いことはわかっている。それでも、太陽の下に出たくて仕方がなかった。自分が何より好む暖かい陽光なら、昨晩の記憶を根こそぎ洗い流してくれるのではないかと思ったのだ。
ヘヴリング家本宅の前庭は年中青々とした芝生で覆われ、常緑の低木で彩られている。外部から呼びつけて贔屓にしている腕利きの年老いた庭師が一人で整えてくれていて、日当たりの良い拓けた空間には庭師お手製の白い長椅子が置かれている。リンハルトはその椅子がある場所をいたく気に入っていた。今日も長椅子は丁寧に磨き上げられて、新緑の中でその白さを映えさせている。
日差しの強さに目を細めながら、リンハルトは椅子に腰を下ろした。いつものように寝転がる気にはなれなかった。背もたれに身を預け、空を見上げる。しばらくの間そうしていたが、特に何も変わらない。ああ駄目か、と小さく湧いた諦観が耳の奥で不気味に反響した。
俯瞰する不自然な視点こそなくなっていたが、目に映るすべてがどこか他人事のように感じられる違和感は消えていない。この先一生このままなのかもしれない。そう考えて溢れ出す不安や恐怖すらどこか遠く、足元から這い上がる静かな絶望がひしひしと全身を蝕んでいく。
その時ふと、リンハルトの顔に影が落ちた。虚空を見つめる目が現実に引き戻されるより先に、耳慣れた明るい声が鼓膜を揺らす。
「リンハルト、どうした? 顔色悪りぃぞ」
「カスパル……」
目の前に立ち、きょとんとした顔で覗き込んでくる幼馴染みの姿を見るなり、リンハルトの目は急速に光を取り戻した。重なりきれずにぶれたままだった心と身体が、その瞬間がっちりと元に戻るのがわかった。ただならぬ様子のリンハルトに気付いているのかいないのか、カスパルは「おう!」と笑ってリンハルトの言葉を待っている。
今日は会う約束などしていないと思うが、カスパルが気まぐれにヘヴリング家を訪れるのはいつものことだ。無用な来客を好まないヘヴリング家の庭先はカスパルだけは例外として、彼相手には常に開かれている。わざわざ足を運んでくれたのか、それとも通りがかっただけなのかはわからないが、今日もヘヴリング家の門はカスパルを我が子のように招き入れたのだろう。だから彼は今、こうしてリンハルトの目の前に立っている。
降り注ぐ陽光よりも、背中に伝わる椅子の硬質な感触よりもずっとずっと強烈に、カスパルの気配はリンハルトの絶望をほぐした。安堵が喉を詰まらせて、リンハルトはカスパルを見上げてその名を呼んだきり、二の句を継ぐことも動くことも出来ずにいる。
いくら待っても何も言わないリンハルトに、カスパルはさすがに痺れを切らしたようだった。脈絡もなく伸びてきた手は、恐らく乱れた髪の毛を整えようとしてくれたのだろう。カスパルの手が自身を害するはずなどないと、リンハルトは確信している。それなのに、リンハルトは咄嗟にその手を振り払っていた。ぱしん、と乾いた音がして、拒まれて行き場を失ったカスパルの手の向こうに、驚いた様子の幼気な顔を見る。遅れて手がじんと痛み、自分がしでかした拒絶をはっきりと認識したリンハルトは、ただでさえ白い顔をざっと青ざめさせた。
「……あ……違、……」
もう心と身体がバラバラなあの感覚は消えたはずなのに、カスパルのことを拒む気持ちなんて欠片もないのに、どうしてこんなことをしてしまったのか、リンハルトにはわからなかった。頭の中が不安と混乱で塗り潰されて、ろくに思考が働かない。何か言わなくてはと思うのに、唇は頼りない息を吐くばかりで、まともな言葉など一つも紡いでくれやしない。
そんなリンハルトを驚いた顔のままじっと見下ろしていたカスパルは、突然にっと破顔して両手を顔の高さに上げた。
「今はさわられたくないんだな? わかった、お前が良いって言うまで絶対さわらねえ。だから安心しろって!」
カスパルはいつも通りの快活な声でそう言って、両手を後ろ手に組んでみせた。尻の後ろで固く結んだ指をわざわざリンハルトに見せつけて、だから大丈夫だと主張する。その健気な仕草が、思いやりに溢れた言葉が、向けられる笑顔が途方もなく眩しくて、とても見ていられない。リンハルトは俯いて、耐えるように唇を引き結んだ。逃げている、嫌がっていると思われても仕方のない行動だったが、カスパルは気にした様子もなく声を掛けてきた。
「何かあったのか?」
「……うん」
震える手で自分自身を抱きながら、リンハルトは頷いた。
「……その。昨日の夜に、……女の人と、……」
「? ……ああ! コーセツの実技か?」
恐る恐る、言葉少なに絞り出したリンハルトに対して、カスパルの声音は驚くほどいつも通りだった。嬉しげに「昨日の晩飯は肉だったのか! いいな!」と言ってリンハルトの背中を無意味にバンバン叩く時と何一つ変わらない。カスパルの口があっけらかんと放つ「交接」は、リンハルトの知るそれが持ついやらしさや不快感が皆無で、まるで違う言葉のように響いた。とは言え、晴天の下大声で叫んでいい単語ではない。
「カスパル、声が大きい……」
リンハルトは顔を上げ、立てた人差し指を唇に当てて苦笑いでカスパルを咎めた。いつの間にか震えも止まっていて、毒気がすっかり抜かれた気分だった。
「っと、悪りぃ。そっか、お前ももう十二になったもんなあ。あれ、面倒だったなー」
「……え? カスパルも、あれをやったの?」
身体的な成長がやや遅いため失念しがちだが、カスパルはリンハルトよりも五節ほど早く生まれている。青海の節に迎えた誕生日の後、彼も帝国貴族の習いに従って交接についての手ほどきを受けたというのは、何もおかしい話ではない。それでもリンハルトが驚いたのは、カスパルからそんな気配を感じたことは一度たりともなかったからだ。今年の青海の節1の日、リンハルトはカスパルの家で彼の誕生日を祝った。その数日後に、父親から贈られたという小ぶりの斧を振りかざして近くの森に入っていくカスパルをいやいや追いかけたことも覚えている。ベルグリーズ家の詳しい教育事情は知らないが、帝国貴族の家では通例として十二の誕生日を迎えた節目に行われるようだから、少なくとも青海の節の間には済ませているはずだ。だがリンハルトがいくら記憶を辿っても、カスパルからあの悍ましい色を嗅ぎ取った瞬間など一切なかった。
心底驚いて問いかけたリンハルトに、カスパルは少しだけ不満げに唇を尖らせる。
「皆やるんだから、そりゃやるだろ。まあオレは家を継ぐわけじゃねえし、紋章もねえし、お前や兄貴よりは軽い訓練だったかもしれねえけどよ」
「訓練って……」
「一応あれも訓練だろ? オレはそんなに好きじゃねえけどな。なーんか身体を動かすにしても中途半端でさ、まあ一度限りでもうやんなくていいらしいから良かったけどよ。走ったり剣振ったりする方が楽しいもんな」
とても同じ経験の話をしているとは思えないほど、カスパルの口ぶりは軽かった。そういえばリンハルトは見れば気絶するくらい血が嫌いだが、カスパルはあちこちに擦り傷や切り傷を作ってはしょっちゅう血まみれになっていて、それをまったく気にしない。これと同じで、リンハルトにとっては吐き気を催すような行為でも、カスパルにとっては大したことではないのだろう。
そう思い至ったところで、安堵と寂しさが綯い交ぜになった複雑な感情が、リンハルトの中でこんこんと湧いた。俯いて、膝の上で両手を固く握る。
「……うん。あれなら剣を持つ方が、まだましだったよ」
「がっはっは! お前が剣の方がいいって言うなんて、相当イヤだったんだな!」
「……うん。嫌だった」
カスパルの無邪気な笑い声に手を引かれるようにして、リンハルトが無意識に押し込めていた本音が引きずり出された。そこからは坂を転がるように、考える間もなく言葉が溢れてこぼれていく。
「嫌だった。すごく嫌だった。ずっと気持ち悪くて、今も気持ち悪くて、触られたところが全部、洗っても洗っても汚れてる気がするんだ」
声はか細く震えた。膝の上の握りこぶしも、震えて真っ白になっていた。
リンハルトだってわかっている。あの指南役の女性は、決して望んで自分を受け入れてくれたわけではない。彼女は己の務めを忠実に果たしただけだ。あれは彼女の役割で、その役割を押し付けたのはヘヴリング家――即ち他ならぬ自分自身であることを、リンハルトは痛いくらいに理解している。だからこそ彼女に対しても、彼女との行為に対しても、悪い言葉で語らないよう無意識が阻んだ。あれは自分が、ヘヴリング家が、アドラステア帝国の貴族社会が、はした金で買い上げている行為なのだから、と。それなのに、一度せきを切って溢れ出した感情や言葉は止まらなかった。
悪いのは自分で、でも望んでそうしたわけじゃない。どうすることもできなかった、だって知らなかったから。本当に? いずれそういう日が来ることはわかっていたくせに? 手を打とうと思えば打てたかもしれないのに? そんなことを言ったって、親の庇護下にある子供に何が出来たというのだろう。何をしらばっくれているんだか、十二歳にもなればもう大人だと散々言われただろうに。そう、第一、大人しかしない行為を、もうおまえはしたじゃないか。
いつもは理路整然としている頭の中が、信じられないくらいに支離滅裂だった。吐き出して楽になった分と同等の重みが、胸にずしりとのしかかる。苦しさの総量は変わらない。わかっていたことなのにと後悔まで上乗せされて、リンハルトの視界が滲み出す。
俯いて嗚咽を堪えるリンハルトの上にカスパルのいつになく静かな声が降ってきたのは、堪えきれなくなった涙がこぼれかけた、その瞬間のことだった。
「どこだよ?」
「え……?」
「汚れが気になるとこ。どこだよ?」
「……手、とか。腰、とか……?」
「見せてみろって」
顎で促されて、リンハルトはおずおずと広げた手をカスパルに向けて差し出した。彼は首を傾げたり膝を曲げて屈んだりしながら、リンハルトの手を四方八方から眺めている。決して触れないと言った約束を彼が守ろうとしていることは、今も後ろ手に組まれたままの両手を見れば一目瞭然だった。
言うまでもないことだが、リンハルトの「汚れている気がする」というのは精神的な話であり、物理的な汚れのことを指しているわけではない。そのことをカスパルが理解しているのかいないのか、無遠慮なまでの視線に手を晒されながらリンハルトは不安になる。カスパルは決して愚か者ではないのだが、頭脳の鍛錬は不得意だ。いくらなんでもないとは思うが、理解出来ていない可能性をどうしても否定しきれない。
だがそれを、リンハルトは結局口には出さなかった。あまりにもカスパルの目が真剣だったから、水を差したくなかったのかもしれない。澄んだ空色の双眸でじっくりと検分を終えたカスパルは、黙って見守っていたリンハルトに大きく頷きながら笑いかけた。
「ちゃんときれいだぞ。いつものリンハルトの手だな!」
「そう……かな」
「おう! 腰も見とくか?」
「え、……うん」
一瞬迷ったものの、リンハルトは自身の服に手を掛け、下に着ている薄手の襯衣ごとたくし上げた。露わになった細く白い腰をまじまじと見つめ、その場に屈んだカスパルが不思議そうに首を傾げる。
「うわ、筋肉ねえなあ、お前」
「それは今、関係ないでしょ……」
「がはは、悪りぃ悪りぃ! 筋肉ねえし細っこいけど、全っ然汚くはねえよ!」
足元でしゃがんだカスパルは、そう言って満面の笑顔でリンハルトを見上げた。そこに嘘がないことは、顔を見なくても、声を聞かなくてもわかる。カスパルはリンハルトに嘘をついたことなんて、今までに一度もないのだ。
だが、カスパルのその純真さをもってしても、リンハルトが抱える気持ち悪さは拭いきれなかった。当然だ、だって一番汚いところは見せていない。と言うよりも、見せられない。おいそれと人目に晒す場所ではないし、口に出すことすら躊躇われる。
本音を言えばいっそカスパルの前に全てをさらけ出してしまって、大丈夫だと笑ってもらいたいと思ったが、それを堪えるだけの理性はあった。だが代わりに続く言葉を堪えられないほどには、その理性は融けていた。
リンハルトは少しだけ背中を丸めると、自分の足元でちょこんと屈むカスパルの顔を覗き込んだ。
「ねえカスパル、僕、汚くない?」
「おう。お前はきれいだよ、安心しろって」
「本当? ……じゃあ、さわれる?」
「ん? そりゃさわれるけど……お前は今、さわられるのイヤなんだろ?」
「たぶん、もう平気だよ。……でもカスパルは、ほんとに、……っ!」
リンハルトが続けようとした言葉は、不意に腰に触れた温かさに驚いて途切れた。リンハルトが言い切るのを待たずに、カスパルの手がリンハルトの腰に触れたのだ。何ともせっかちなカスパルらしい性急さで、その手は下からリンハルトの服の中に潜り込んでいた。
「ほら、さわれただろ? お前、すべすべしてんなー。どっこも汚くなんかねえじゃん」
本当にさわれるのか、なんてしつこく確認されるまでもない。そう言わんばかりにリンハルトを見上げる顔は無邪気そのもので、どこか得意げですらあった。
あたたかな、リンハルトよりも小さな手。ぺたりとただ触れるだけのそれが不意に滑り、リンハルトの素肌を撫で上げた。カスパルに他意はない。もちろん害意もない。リンハルトが触れてほしいと言ったから、ただ触れてくれているだけだ。だからその手の感触に、どうにもむず痒いような痺れを感じてしまうのは自分の問題だ。わかっていながら、どうにも腰が引けた。逃れようとして身を捩り、長椅子の背もたれに阻まれる。掠めたカスパルの指先の感覚に、よく分からないままリンハルトの口から声が洩れた。
「……ぅ、あ……」
勝手にこぼれた苦しげな声にリンハルト自身驚いたが、カスパルの方は肩を跳ねさせてもっと驚いていた。慌ててリンハルトに触れていた手を引き、立ち上がりながら後ずさる。
「なんだよ、やっぱイヤなんじゃねえか。無理すんなって」
「違う、嫌じゃない。カスパルのことは全然、嫌じゃないよ」
本心からの言葉だった。触れられた肌に残るじんじんとした感覚も、知らずにこぼれた声のことも、何一つ説明は出来なかったが嫌ではないと言い切れた。離れていく幼馴染みを引き止めようとリンハルトは手を伸ばしたが、俊敏さでカスパルに敵うはずもなく、今二人の間には人一人分の隙間が空いている。そのことを苦痛に思うくらい、リンハルトはカスパルに触れていてほしかった。
お互い嘘をつかない性格だとわかっているはずなのに、必死に言い募るリンハルトにカスパルが向ける視線は、いつになく懐疑的だ。
「本当かよ。だってお前、コーセツで汚れたって気にしてんだろ? オレだってやったんだし、オレのことも汚いって思ってんじゃねえか?」
「ッそんなことない……!」
カスパルの言葉を聞くなり、リンハルトは悲鳴のような声を上げ、大きく頭を振って立ち上がった。リンハルトが大声を出すのは、本当に珍しいことだ。幼い頃からずっと一緒にいるカスパルだって、今まで片手の指で数えられるほどしか聞いたことがない。
「そんなことない、カスパルは汚くなんかない……!!」
「おう」
激昂の勢いで声を荒げるリンハルトに、カスパルは静かに応える。立ち上がったリンハルトは彼の胸ぐらを縋るように掴んだが、それにも嫌な顔一つせず、カスパルはまっすぐにリンハルトを見つめて大きく頷いた。
「オレもそう思ってるぜ。オレが汚くねえなら、お前だって汚くねえよ。だってオレたち、一緒じゃねえか」
「……うん……うん、そうだね。そう、だよね……」
何度も何度も頷きながら、その度にリンハルトの身体から力が抜けていった。胸に縋り付く手はそのままに、カスパルの肩に額を預け、そのままぐったりと体重をかける。カスパルはリンハルトより頭半分ほど背が低いが、ベルグリーズ家の常軌を逸した訓練で鍛えられた体幹は、リンハルトと比べるべくもない。自分より背の高いリンハルトの身体を難なく受け止めて、カスパルはただ佇んでいる。
いつものカスパルならリンハルトの背に手を回して、ぽんぽんと宥めてくれたかもしれない。だが彼はとっくに撤回されたはずの触らない約束を律儀に守り、その手をまた後ろ手に組んでいた。自分が変な反応をしたからだと、リンハルトの胸中にらしくもない後悔が過る。
「……ねえ、さわってよ、カスパル」
「いいけど、どこをだよ?」
額をカスパルの肩に擦り寄せてリンハルトが小声でねだれば、当然のように快諾された。耳がすぐ近くにあることを考慮してくれたのか、カスパルにしては小さな声がくすぐったい。
いいんだ? さっき嫌な反応をしちゃったのに、そう言ってくれるんだ? どこを? 別にもう、どこだっていいんだけど。
頭の中でふわふわとそんなことを考えながら、リンハルトはひとまず背中でも撫でてもらおうと口を開いた。
「全部。……カスパルが汚くないと思うところ、全部さわって」
果たして開いた口からはまったく予定していない言葉が勝手に飛び出たが、リンハルトは焦らなかった。ああ、言っちゃったなあと思っただけだ。
「ええ? 結構めんどくせえこと言うなあ、お前。まあいいぜ、そうすりゃお前は安心するんだな?」
「うん」
「そんじゃ、家ん中行こうぜ! 外だとお前、すぐ風邪ひいちまいそうだもんな」
わりと無理筋な要望を心配になるほどあっさりと引き受けたカスパルは、屈託のない笑顔を浮かべてリンハルトの手を引いた。跳ねるような足取りで迷いなく向かう先はすぐそこにあるヘヴリング家の玄関ではなく、少し歩いた先にあるベルグリーズ家のようだ。
(……僕の家だと、僕がまた嫌なことを思い出すかもしれないから?)
カスパルがそこまで考えているかはわからない。でもカスパルが今更ヘヴリング家で気後れするとも思えないので、きっとリンハルトの想像通りなのだろう。
しっかりと繋がれた手は、腰に触れられた時よりもずっと温かい。手を引いて前を行くカスパルは、時々リンハルトを振り返った。そして目が合う度に、嬉しそうに笑ってみせた。
カスパルと一緒に歩く度に、洗っても洗っても拭えなかったどうしようもない汚れが、少しずつ消えていく気がした。まるで憑き物が落ちたようだと、普段なら考えたくもない例えさえ浮かんでくる。
リンハルトは繋いだカスパルの手を強く握った。即座に同じ強さで握り返してもらえることに、どうしようもなく心が緩む。一生忘れられないかもしれないとまで思った気持ち悪さですら、早くも記憶から薄れはじめていた。
青々と茂る芝生の上に鎮座する、白い長椅子。
偶然に見かけたその光景は、珍しいことにリンハルトの郷愁をずいぶん刺激したらしい。そこは幸いにも公共に開かれた憩いの場だったので、彼はいそいそと長椅子に腰を下ろし、猫のように身体を伸ばした。
そこまでなら、リンハルトが滅多にしない寄り道をしただけの話だ。だが彼は傍らに立つカスパルを見上げ、どこか悪戯じみた笑みを浮かべて昔話を語りだした。ずうっと昔、お互いに誕生日を迎えた後の、十二歳の赤狼の節。すっかり記憶の底に沈んでいた思い出がリンハルトのどこか愉しげな語り口によって引きずり出されて、カスパルは額をおさえて唸った。
「……あー、あったな……そんなこと……」
「どうしてそう難しい顔をするかな」
「オレにとってはこっ恥ずかしい思い出なんだよ……。当時は純粋にお前のこと心配してたけどよ、大人になってから思い出すと……」
「思い出すと?」
「……この話やめねえ? すげえ墓穴掘りそうで怖ぇ」
「カスパル……君が賢くなっちゃって、僕は時々とても悲しいよ」
「お前なあ、オレがバカだったみたいな言い方やめろ。お前に比べたらそりゃバカだけどよ」
座っているため自分より低い位置にあるリンハルトの額を、緩く握った手でこつんと弾く。痛い、と全く痛くなさそうに文句を言って、リンハルトは楽しそうに笑った。
カスパルの記憶にある思い出の中のリンハルトは、あの日ずっとどこか怯えたような目をしていて、笑顔も無理やり浮かべたみたいに引きつっていた。リンハルトが苦しそうなのは見ればわかったが、どうしてそんなに苦しんでいるのかはわからなくて、あの手この手で不器用に慰めたけれど、正直効果があったのかは自分でも疑問だった。数日後にはすっかりいつも通りのリンハルトに戻っていたから、心配ではあったがあの日の事を蒸し返すような話題は避けた。そのままカスパルにとっても遠い思い出になっていて、まさかこんな歳になって本人の口から詳らかに語られるとは思ってもみなかった。ところどころカスパルの記憶と齟齬がある気がしたが、まあどうせリンハルトの方が正しく覚えているのだろう。
いや、どうだろう。やはりリンハルトの中の自分は美化され過ぎている気がする。あの時、カスパルは弱ったリンハルトを前に、おろおろと狼狽えて拙い言葉を必死に投げかけた覚えしかない。
実際どうだったかはもう確かめようもないのだが、リンハルトが笑顔で懐かしみながらあの日の話をしてくれることに、カスパルは心底安堵した。それほどに、当時のリンハルトの様子は尋常ではなかったのだ。
「あん時のお前、相当参ってたよな。そんなにイヤな奴を宛てがわれたのか?」
「いいや、むしろ逆だね。考え得る限りで最高の指南役だったよ。僕が未熟な子供だったから、それがわからなかっただけ」
リンハルトはそう言いながら、浮かべた笑顔を少しだけ淋しげに曇らせた。その表情は進んで見たいと思えるものではなかったが、カスパルは目を逸らすことも口を挟むこともしない。静かな声で「実はね」と、リンハルトがぽつりぽつりと語り出したからだ。大人になってから一度だけ、指南役を引き受けてくれた女性のその後を探ったことがあるのだと。まるで懺悔でもするように。
貴族の家が指南役に支払う報酬は平民が慎ましやかにその後の一生を暮らせる程度の額を一括払いが相場であるが、ヘヴリング家は一度の大金ではなく少額の継続的な援助を対価に彼女と契約を結んでいたらしい。指南役を務めたことを口外しないこと、万一孕んだ場合はすぐに報告することなど、様々な条件の対価として報酬を支払うわけだが、大金を手にした途端豹変する人間は少なくなく、この問題に頭を悩ませる貴族は多い。その点、ヘヴリング家のやり方は上手かった。最終的な総額は嵩むが、常に次の報酬をちらつかせることで相手が掌を返す可能性を最小限に抑え、その動向を自然かつ合法的に監視する。さすがは内務卿を務める男の采配である。
彼女はヘヴリング家での仕事を終えてすぐに、小さな孤児院の経営を始めた。そのことはヘヴリング家の慈善事業の記録の中に記載があった。毎節彼女に支払われるささやかな金額は、もちろん崇高な慈善精神からの援助などではなく、彼女の仕事に対する対価である。実像を伴った粉飾で、少しばかり科目が彩られてはいるが。
リンハルトがそれを知ったのはカスパルと旅に出る直前、すっかり大人になった二十二歳の時だった。その時も彼女は女手一つで孤児院を切り盛りしていた。一度に保護出来る子供の数こそ少ないがその献身ぶりは有名で、彼女と彼女を支援するヘヴリング家は素晴らしい慈善家として紹介されたことすらあるらしい。
彼女がどうして幼い子供を保護し、慈しむ道を選んだのか。その真意は文字と数字の記録を辿るだけではわからない。だが彼女のそれが贖罪であることを、リンハルトは半ば確信している口ぶりだった。
伯爵位の継承権を放棄して出奔する際、リンハルトはヘヴリング家に、彼女の孤児院への援助を家が潰れるまで途切れさせないことを要求した。ヘヴリング伯は「君に頼まれずとも」とだけ答え、静かに目を閉じていたという。
「聡明な女性だったよ。僕に合わせようとしてくれてた。僕が少しでも苦しくないように、これは何でもないことなんだって、ずっと言い聞かせてくれてた」
「へえ。当時のお前にはあんま効果なかったけど、いい仕事してたってことだな。で、なんで孤児院でショクザイなんて話になるんだ?」
「彼女、最初から最後まで僕を子供を見る目で見てたから。罪悪感がすごかったんだろうね。子供を犯して貰ったお金を、自分のためには1Gたりとも使えないくらいに」
「んー……でもそいつは、頼まれて仕事しただけだろ?」
「そうだよ。彼女は何も悪くない。僕だって悪くない。ただそういう時代だったってだけ」
「ふうん。そいつもお前がそう思ってるって知ったら、ラクになるんじゃねえの? お前だって、やっぱり引っかかってることあんだろ? そんだけ細かく覚えてるってことはさ」
「だから手紙でも書けって? いいんだよ、過ぎたことなんだし。お互いに傷つけ合ったから、二度と関わらない方がいい。僕が何を言わなくても、彼女はもう自分の足でしっかり立っているわけだしね」
「そっか。……そいつのことばっかりだけどさ、お前はどうなんだよ」
「何も問題ないよ」
長話を終えたリンハルトはふうと息を吐き、眩しげに細めた目でカスパルを見上げた。
「だって、あの日君は本当に、僕の全部に触れてくれたからね。おかげで心に傷を残すこともなく、健やかにここまで育ったよ」
「いやだから、その話はもうやめろって!」
「君が聞いてきたくせに」
「そこに繋がるとは思わねえだろ!!」
顔を赤くしてカスパルが絶叫すると、リンハルトは腹を抱えて笑い出した。しんみりとした空気は一気に霧散して、喚き声と笑い声が折り重なり、高い空へと響き渡る。
一頻りぎゃあぎゃあと子供のように言い合って、声が枯れる頃にはリンハルトの目にうっすらと涙まで浮かんでいた。いくら何でも笑いすぎだとむくれるカスパルを見上げたリンハルトが、非常にたちの悪い、ろくでもないことを思いついた目をして、突然すっと立ち上がる。そのままリンハルトは戸惑うカスパルににじり寄り、その白い額をあの日のように、カスパルの肩に預けて擦り寄せてきた。
往来で一体何をしているんだ、こいつは。妙な甘え方をしてくるリンハルトの背を反射的に撫でながら、カスパルは心の中で呆れ返った。人気がないとはいえ、ここは公共の広場でいつ誰が来てもおかしくないし、今だって誰に見られているともわからない。だがそんな常識的な文句は、結局言葉にはならなかった。
「ねえ、カスパル。あの時みたいに触ってって言ったら?」
「……お前さ、やっぱ何か嫌なことも思い出して、不安になっちまったんじゃねえか?」
リンハルトの口調はからかうような、どこか軽薄にも聞こえるものだったが、カスパルは同じ調子で返すことが出来なかった。何しろ直前まで俎上に上がっていた話題が話題である。だがそんなカスパルの心配をよそに、リンハルトは心の底から楽しげだった。
「思い出したのは君の拙い手つきだね。あれからどれくらい成長したか、確かめてあげようと思ってさ」
どこまでも人をおちょくったような言い草に、遂にカスパルも真剣な心配を放り投げた。
「お前なあ……。ったく、お前がきれいなのは触って確かめるまでもねえけどよ、やり口は汚くなったんじゃねえか?」
「大人になったからねえ。カスパルの方が変わってるんだよ。全然変わらないんだから」
「意味わかんねえこと言うなよな、どっちだよ」
カスパルの文句などまるで意に介していない様子で、リンハルトは笑いながら顔を上げた。どうやら散々カスパルをからかい倒して、ようやく満足したらしい。
素知らぬ顔で離れていこうとするリンハルトの手を掴み、カスパルは彼をじっと見上げた。口元に薄く笑みを浮かべたまま、リンハルトが首を傾げる。
「どうしたの、カスパル」
「早く宿探そうぜ。外でお前を引っ剥がして、ぺたぺた触るわけにもいかねえだろ?」
「……あれ。本当に付き合ってくれるんだ?」
飄々とした態度を貫き通そうとするリンハルトが一瞬狼狽えたことに、もちろんカスパルは気づいている。伊達に長年幼馴染みをやっていない。
あの頃より少し小さく細く感じる手を握り、カスパルは道のずっと先に見える街に向かって歩き出した。手を引かれたリンハルトは、少し戸惑いながらも大人しく付いてくる。何かカスパルに掛ける言葉を探しているような気配がしたので、カスパルは先手を打ってリンハルトを振り返った。
「冗談のふりして照れ隠しすんの、昔っから変わらねえな、リンハルト!」
そう言って笑い飛ばしてやれば、繋がった手の先でリンハルトは眉間に皺を寄せた。
露骨な不機嫌面だったが、カスパルは意に介さず前を向き、上機嫌に歩き続ける。繋いだ手は離されないし、後ろを付いてくるリンハルトは今、きっと顔を赤くして俯いている。
切っても切れない腐れ縁だから、そんなことだって確かめるまでもなくわかるのだ。だからこそ、たまには顔を突き合わせて触れ合って、そうして確かめ合うのも悪くない。
